葛の花、紅き刃に咲く 〜玖
桃は濡れた衣を絞りながら、荒い息を整えていた
幸いずぶ濡れにならずに済んだが、もう少し雨に晒されれば、雨に冷やされた鎖帷子が肌に纏わりついて動きづらくなっていたかもしれない
城の中は、外とは打って変わってひどく静かだった
瓦の隙間から漏れる雨音だけが、微かに耳に届く
ひんやりとした石造りの床に、濡れた草履の跡がついていく
桃が辿り着いたのは、城の大広間だった
武将たちが集い、酒を酌み交わすであろう広い空間
今は薄暗く、侘しい
ぼんやりと揺れる松明の光が、天井を這う大梁を不気味に照らし出していた
桃は息を呑む
…違和感
冷たい空気の中に、確かな気配を感じた
奥の柱の陰から、音もなく現れた一つの影
「才蔵…」
まるで月のない夜に立つ、影そのもののようだった
才蔵は、まっすぐに桃を見据えたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる
一歩、また一歩
硬質な足音だけが広間に鳴り渡った
互いの距離が、徐々に縮まっていく
「桃花様、お久しぶりです
いや、もうこういうのはいいか、やめよう
…桃、」
墨汁を零したような黒く美しい髪
右手でかき上げながらそう言った才蔵
目を凝らせば、体内を巡る血まで見えそうなほどの白い指
垂れ目がちの大きな瞳は、瞼を細くして桃を見つめていた
黒点…
其の瞳を例えるなら其れ
六千度を超える温度で燃え盛る太陽に現れる点
二千度、たった二千度低いだけの其れは、まるでとぐろを巻く黒い蛇
此の時代にしては高く筋の通った鼻
血色が良いとは言えない薄い唇に咥えられた笹
美少年…
一言で表すのであれば其の三文字が適当だった
其の美しい顔立ちは、無機質だが、何処かもの悲しげに見える
才蔵が纏う漆黒の着物は銀糸で編まれた上質なもの
胸元に拵えられた家紋が、僅かに光を放つ
左腰にさげられた日本刀から、鋭い殺気を感じた桃
嫌でも刀から視線を移せなくなっていた
三日月、半月、満月と様々な月の形が彫りこまれた柄は、紅と黒で綺麗に染め上げられている
鍔はやや小ぶりな八角形
人か鬼か此の距離では判別がつかないが、顔の形をした銀細工が丁寧に施されている
漆黒の鞘
然し、所々に見える赤い斑点
元々の細工か其れとも返り血か
いずれにせよ、其の刀が吸ってきた血は、数十、いや数百を超えるのだろう
未だ血が欲しいのか…
鞘の中から紅い光が滲んで見える
其れはまるで生き物の心臓活動の様に、一定の間隔で現れては消えた
「村正、という
不思議な刀だ
紅く光るんだ
其れは俺の憎しみの強さに比例する…」
才蔵が咥えていた笹を煩わしそうに吐き捨てながら言った
続いて、桃の視線を惹きつける様にして、右手の長い指をわざと大袈裟に前に出してから、村正の柄を指先でなぞった
其の瞬間、空気が一段と重くなり、先程まで点いていた蝋燭の火が一つ、二つと消えた
村正からは、溢れんばかりの紅い光
…生きている
桃の背筋がぞくりと震える
私の血を、求めている…
「人を斬るため
いや、貴様を斬るための刀
俺と貴様の呪われし運命にぴったりだ」
才蔵がそう言って、左手で村正の鞘を抑え、右手で柄を握った
「待ちきれなかったよ、ずっと
桃、やっと貴様を此の手で葬れる」
そう言い終えると、才蔵は村正をゆっくりと引き抜いていく
時の流れは万里共通
其のはずなのに、才蔵が刀を引き抜く数秒は、桃にとって数十秒、数分の様に感じられた
村正から放たれる紅い光が、刀と才蔵を包み込んで、桃に強烈な殺気を放つ
「さぁ貴様も刀を抜け
殺し合いをしよう」
無機質な顔から零れる笑みは、まるで此の世の不条理を表しているかのように不釣り合いだった
桃は、額から流れる一筋の汗を拭うことなく、左手を雷切の鞘に優しくあてた
…大丈夫、服も少し乾いた
恐れない
才蔵の悲しみを解き放つ
「貴方が私に何故、其処までの憎しみを抱いているのか、私には分からない
だけど、私は、目の前の、救えることが出来る人を、救いたい
そして、平和な世界を作るの」
ゴロロロ
城の外から聴こえた雷鳴
其れよりも早く、青い稲妻が空を泳いだ
其れは、桃が雷切を引き抜いた瞬間と重なった
雷切は此れまでに見せたことのない程の光を纏っていた
其れは、稲妻のような青白い光
桃を力強く、そして優しく包み込む
「雷を切った刀、雷切
面白い、持ち主に恵まれなかった不遇な名刀
貴様諸共、叩き切ってくれる」
最初に動き出したのは才蔵だった
相手の間合いに瞬時に飛び込んでいく技
玄信が得意とする縮地で、一気に間合いを詰めた才蔵
左肩を瞬時に下げて、村正を振り上げる
「っ!!」
間一髪、桃は才蔵の一撃を後方へ跳ぶことで躱す
然し、才蔵は其処まで読んでいたのか、直ぐに地面を蹴り出して桃を追撃し、村正を振り下ろす
ガキィィィィン
其れは雷切と村正が激しくぶつかり合う音
鋼と鋼が重なる金属音
まるで慟哭の様に響き渡る
雷切の青と村正の紅が中央で激しく交わる
例えるなら其れは、青い虎と紅い龍
桃の想いと、才蔵の憎しみ
桃は瞬時に雷切を引いて足蹴りを繰り出す
村正を左手に持ち替えた才蔵が、其の足蹴りを右手で大袈裟にはたき、更に桃の顔面目掛けて右手拳を放った
避けられぬ一撃、のはずだった
桃はまたしても其れをしゃがんで躱し、雷切の柄で才蔵の鳩尾を突いた
繰り出していた右腕を瞬時に曲げて、肘打ちを当てることで其れを防いだ才蔵
同時に距離をとった二人
「お前、まさか…」
才蔵はハッとした様な表情で桃を見ている
対照的に桃の表情は落ち着いていた
「心眼を、持っているのか…」
才蔵が呆れたように、それでいて悲しそうに言った
才蔵の反応を確かめるように、桃が小さく頷く
桃は、才蔵が心眼を持っていることを知っていた
鬼ヶ島で才蔵と戦った玄信から聞いていたから
「…本当に憎たらしいな、あの女
俺だけだと思っていたのに」
才蔵は右手で顔面を覆いながらそう言い放ち、桃をギロリと睨みつけた
瞳の中の黒点が、其の温度を上げた様に、紅く色づいていく
次に駆け出したのは桃だった
玄信の縮地には未だ及ばないものの、相当な速さで才蔵の間合いに近づいていく
…あの女…?
「…遠雷」
桃は駆け出しながらそう呟き、ひらりと一回転しながら、雷切を横一文字に振るった
刹那だった
常人であれば躱せぬ一撃
「朧月」
才蔵は目を大きく見開いて村正を雷切に合わせようとした瞬間に村正を引いて、左手で村正の鞘を逆手に持って桃の左顔面を狙った
桃は其のまま身体の捻りを継続させて雷切で村正の鞘を打ち落とす
次の瞬間、桃の右腰に鈍い痛みが走る
「っ!!!」
才蔵が左回し蹴りを桃の右腰に放っていた
「遅い」
才蔵は続けざまに桃の間合いに縮地で飛び込み、空になった左手で鳩尾目掛けて正拳突きを繰り出した
桃は痛みに顔を歪めながらも、何とか雷切の峰で才蔵の左手を払う
其のはずみで、二人の顔が一瞬近づく
…似てる…
桃は才蔵から跳んで離れ、乱れた呼吸を整えようとした
然し、出来ない
心臓は高鳴るばかりで、こんな時に限って言うことを聞きそうにない
恐る恐る才蔵の顔を見る桃
其れは自分に瓜二つだった
どうして今迄気付かなかったのか
…容姿
心眼持ちという共通点
才蔵の強い憎しみ
あの女という単語…
桃の中で、一つの仮説が生まれていた
才蔵も、母かぐやの子供…?
「おいおい、考え事かよ
俺はお前を殺そうとしてるんだぜ」
才蔵が村正を振りかぶりながら接近し、桃の動きに合わせて執拗に振るってくる
其のどれもが完成された剣術
早くて鋭く、おまけに精度も高かった
桃は何とか雷切で合わせながら凌ごうとする
然し、身体能力で勝る才蔵に徐々に追い詰められていく
時折村正の鋭い刃が桃の袴に食い込もうとするが、翁がこしらえた鎖帷子が其れを弾いて桃の命を救う
はぁ、はぁ、ゆっくり考えさせてくれない
でも、もし私の考えが事実なら、私はもう
…戦えない
桃は其の構えを解き、ゆっくりと雷切を下げていく
先程までの青白い光は、弱々しく剣先に留まっているだけになった
対しては村正は、まるで刀身そのものが真っ赤に染め上げられたが如く、変わらず紅い光を纏い続けていた
「貴様、刀を上げろ
俺と戦って、孤独を感じながら惨たらしく死ねよ」
才蔵が眉毛を釣りあげながら言った
「戦えないよ、だって貴方は」
「てめぇの何なんだよ、何だったら戦えない?
ほざいてみろ」
桃の言葉を遮るようにして言い放った才蔵
未だ其の殺意は衰えることを知らない
「兄妹…
なんだよね?
きっと、貴方もかぐやの、母の子なんでしょう?」
桃が言い終える頃には、才蔵の高笑いが響き渡っていた
「笑わせんなよ」
「違うの?」
「いや、そうじゃねぇ
兄妹だったらなんなんだよ?」
桃は、安堵と不安が入り混じったような表情になる
「兄妹なら、手を取り合って…」
才蔵の眉がピクリと動く
空気がまた、一段と重くなったのを感じる
「意味がわからねぇなぁ
俺は兄妹だからこそ--お前を殺したいんだよ」
才蔵がまた桃に向かって駆け出し、上空へ跳んだ
「暁」
上空で才蔵が村正をゆらりと左右に振った
村正の紅い光が空気に混じり、虚空に暁の空を作り上げた
そして凄まじい速さで村正を振り下ろした
まるで其れは紅い雷
「春雷…」
雷切から再び溢れだした青白い光が桃の周りを包み込みながら刀身に集まる
桃はしゃがみながら雷切を鞘に入れ、上空を向いて瞬く間に雷切を振り上げた
ガキィィィィン
再び鳴り響く金属音と慟哭
だが然し、今度は聞き間違いではない
桃の悲鳴にも似た声
「どうしてっ!?」
地面に着地した才蔵と鍔迫り合いをしながら、桃はもう一度叫んだ
才蔵は無機質に微笑みながら口を開く
「俺の母はかぐや…
但し、”産みの”だがな」
村正を振りほどいて距離を取ろうとする桃
なおも才蔵は距離を詰めて、容赦なく村正を振るってくる
歴史上、心眼持ち同士の戦いは長期戦になったと言われている
互いの次の一手を予測出来るため、理論上攻撃が当たることはない
然し、生身の人間
戦の経験値、筋肉量、体格差、持久力
様々な要素から、必ず決着がつく
心眼を持つ桃と才蔵
同じような背丈ながら、筋肉量、戦の経験値で桃を遥かに上回る才蔵
徐々に桃を追い詰めていく
「俺は貴様だけでなく、かぐやも憎い
出来るなら、俺の手で殺してやりたかった…」
「母を…汚すなぁ!」
今度は桃が感情を爆発させる
雷切が才蔵の袴すれすれを横切り、青い光が美しい軌跡を残す
「あの女はな、俺を置いて逃げたんだよ
城から、領主から
お前だけを連れてな」
一瞬、乾いた風が二人の間を駆け抜けて消えた
おぼろげに揺れる松明は、二人の対照的な表情をぼんやりと照らしていた
「どうゆう、こと…?」
桃が震える声で問う
才蔵は、子供のようにけらけらと笑いながら言った
「俺は領主の、何番目だかわからん妾に育てられた
何故かわかるか」
桃は、恐る恐る首を横に振る
「お前の所為だよ、桃
お前だけを連れてかぐやが逃げたからだよ
俺を、俺だけを置き去りにしてな」
村正は、未だ衰えることなく妖しい紅い光を放ち続けている
先程二人の間を通り抜けた風が、もう一度二人の髪をかきあげながら消えた
「何故だろうな?
俺に理由を教えてくれよ」
才蔵が悲しそうに笑い、村正を横一文字に振るった
其れは、桃に届きそうで届かない
然し、正に神速と呼ぶに相応しい所作で刀を返して、再び切りかかる
キィイン、ガキィィイイン
何度も何度も交わる雷切と村正




