葛の花、紅き刃に咲く 〜捌
木と雨と虫、火薬の匂いが鼻をつく
其の時だった
ザザっ!
鈍い鐘のような音
其れは具教の足袋が石畳を擦りながら前に出た音
目を閉じたままの具教は右足を静かに出して、深く静かな呼吸をした
僅かに下がる剣先
周囲の喧騒、雨風の音、玄信の息遣い
其の全てを噛み締めるように、ゆっくりと頷く具教
まるで水面に波紋が広がる最初の揺れのように、身体を左右に散らして、ピタリと重心を定める
未だ目は閉じられたまま
童子切安綱を振り上げ、大きく出した右足の動きに合わせて振り下ろして正中で止めた
続いて、前方に素早い突きを繰り出すと、後ろを振り向いて横に刀を振るう
再び玄信の方に向き直って刀を下げ、漸く目を開いた
玄信は暫く其の完成された動き、具教の背に描かれた家紋に魅入っていた
あれは…
具教の背にあったのは沢瀉と呼ばれる水辺の植物を模ったもの
生命力、繁殖力の強い其れは、勝軍草として武士達に好まれていた
其れよりも…
「具教よ
其の型、其の家紋….」
玄信が口を開いた
恐れおののくというよりは、確信を飲み込んだ穏やかな驚きの声だった
具教は表情を変えず、また抑揚のない静かな太い声で答える
「…卜伝
我が師だ」
「…やはりか」
其れを聞いたときの玄信の表情は誰にも理解出来ないものだった
玄信自体が感情を整理出来ていないようにすら見えた
其れも其のはず…
卜伝
刀の世界にいる者として、知らない者等いない
最強にして最高と呼ばれた剣豪
父、一刀斎の兄弟子であり、最大の好敵手
『玄信、超えたくても越えられない存在ってのは実在する
悔しいがな、其れが運命ってやつだ』
…卜伝…』
泣き言を言わない父が、珍しく酒に酔った夜に話してくれた
一度だけ、其の時にたった一度だけ聞いた名前
父が何度挑んでもt勝てなかった相手
其の名が…卜伝
父が、悔しさを堪えて舞った型
『良いか玄信、此れが奴の型だ』
強くて、威厳に満ちた父
弱さを絶対に見せない男だった
何故、父が其れを俺に見せたのか
其れは分からない
然し、其の型は目に焼き付いている
卜伝は弟子を取ることを拒み、病に伏せ亡くなったと聞いていたが
具教は何も語らない、唯、天を仰いでいる
…ニヤリ
暫くして、玄信は不敵に笑った
此れも因縁だな
父上、俺が此処で貴方を超えよう
貴方の一刀流を昇華させた、此の二天流で
至高の剣は、此の玄信にあるということを
玄信は、左腰に下げた兼重の柄を右手で、右腰に下げた金時の脇差の柄を左手で其々握った
「よぅ金時、準備は出来てんだろうな」
玄信が金時が帯刀していた脇差に声を掛ける
領主相手じゃねぇが、お前の力も借りさせてもらうぞ…
具教を睨みながら膝を曲げた玄信
一瞬頭を下げてから、両手の刀を一気に引き抜いて、目の前で十字に構えた
抜刀の勢いで、弾き飛ばされた雨と風が、具教の硬い肌に当たって空に消える
具教の口角が僅かに上がる
「さぁ、やろうか」
…桃は天守閣を目指して唯、走った
振り返れば足を止めてしまうかもしれない
置いてきた仲間たち
こんな時でもつくづく思う
私は一人じゃない
一人じゃ、何も出来なかった
皆がいてくれたから、此処まで来れた
大粒の雨は桃の瑞々しい肌に当たると、無数の粒になってまた次の場所へ飛んでいく
額に巻いた鉢巻
其れは桃の祖母、媼がこしらえたもの
中央に描かれた果物の桃は、丁寧に染め上げられていた
黒い雨に打たれても少しも滲むことなく、美しい桃色を見せていた
桃は目を拭いながら、其の鉢巻に優しく触れて翁の言葉を思い出した
『どんな夜でも、必ず明ける
どんな朝でも、必ずやってくる』
最愛の娘、かぐやを失った翁と媼
二人にとって、遅くに出来た子供だった
二人は其の愛を、優しさを全てかぐやに注いだ
かぐやの笑顔は、二人にとって生きる希望そのものだった
甘やかしたかった
可愛くて仕方なかったから
かぐやの為を想えばこそ、厳しくすることも必要だと思うこともあった
然し、かぐやの瞳が潤むだけで、二人は慌てて其の小さな身体を抱きしめて慰めた
其れは甘やかしだったのかもしれない
本当に可愛くて可愛くて仕方がなかった
だからこそ…
かぐやの死を知った時の翁と媼の心中は計り知れないものだったろう
親が子を失うこと
其れは、心の一番深いところを、歪な刃物で傷をつけるようなもの
互いに寿命を全う出来るのであれば、本来訪れることのない悲しみの一つ
喪失という深い海の底にいた二人
其処に現れた新たな希望の光
桃
其の光と共に、確実に一歩一歩、前に進んできた
そんな翁の言葉が其れだった
「悲しい泪が流れぬよう
皆が幸せに暮らせる時代はもうすぐだ」
風の音が、狼の遠吠えのように響き渡った
其の時、桃は城の入口に辿り着いていた




