桃の花、秘めたる言の葉 〜弐
・・・
「さぁ、そろそろ行く時間かな。」
まだあどけなさの残る横顔の若い女が言う
其の表情には、緊張と決意と好奇心、そして恐怖の感情が入り混じっているように見える
「今日で何かがわかる。怖い。でもきっと大丈夫。」
女は薄っすらと蒼い光を放つ小振りの日本刀を鞘に納め、左腰に付ける
「気を付けて行くんだよ」
女の背後から現れた老婆
手には団子が握られている
「お婆様。今まで本当にありがとう。
迷惑ばかり、そして自分勝手を許してくれてありがとう」
女の目に浮かぶ泪は、顔立ちの整った張りのある頬を伝って床に落ちる
言葉では伝えることの出来ない程の感謝
どれ程綺麗な言葉を使っても、其れを表現するのは難しい
代わりに落ちた純粋な泪
女の思いは、老婆に伝わっている
「これ、あんたの大好きな十団子。黍を多めにしておいたよ。」
老婆は団子の入った袋を女の肩に袈裟懸した
暫く二人は抱き合い、女は家を後にした
其の日の空は、雲一つない正に快晴と呼べるものだった
鳥の鳴き声が至る処から聞こえ
川のせせらぎが心地良く耳に入ってくる
風は優しく、今日が其の日でなければ
一日の始まりとして最高の朝だった
女は暫く自分が育った家を眺めていた
感慨にふけっていた時間は、どれくらいだったろうか
其れほど深く、これまでの人生を思い返していた
「これを着ていけ」
後ろから優しい声がした
女が振り向いた其の先には、鎖帷子を手にした老人
「ありがとう。」
女は老人が手渡した鎖帷子を装備する
鎖帷子とは、麻製の単衣である帷子に鎖を使用した鎧の一種のこと
通常であれば鎖を多く使用するためそれなりに重量があるが、老人の手渡した其れは殆んど帷子と呼べるほど軽量だった
要所のみに鎖を使用することで防御力を多少犠牲にする代わりに、動き易さに特化していた
「お前の特別な才能を考えたら、こういう造りが最適だと思ってな」
口下手な老人が言う
この老人も、もっともっと伝えたい思いがあった
でも上手く言葉にならない
女は応えた
「そうだね。これは私が着られる最高の鎧。ありがとう。
本当に、今まで。
必ず、生きて帰ってくるから」
女は分かっていた
老人は器用だが、裁縫は得意ではない
そんな男が毎晩夜なべして造った帷子
溢れる感謝で胸が熱い
女を優しく抱擁した老人は、ある方向を指さす
その場所には、若い男が立っていた
「さぁ行こうか」
女を待っていたのは成長した与一だった
そして与一が声を掛けた女は成長した桃
「あれから十年か。早いな。そして今日。
さぁ、行くか」
与一は言った
あれから十年・・・
其れは申の村が鬼に襲われた日から起算されていた
小太郎が両親を失い
玄信が戌の村を追われ、雉の村に移住した
桃が雷切を、与一が与一の弓を手にした
其の年から十年が経ったのだ
桃と与一は十六歳となっていた
桃は差し出された与一の手を強く握り言った
「うん。行こう。真実を知って、新しい道を切り開く」
二人は握りしめたその手を何度も強く握り返していた
不安を打ち消すかのように
互いの想いを確認するかのように
今日は、遣鬼士として鬼ヶ島へ行く日
此の十年、本当に色々な事があった
時の流れは残酷で、受け入れようのない真実という試練を人に課す
鬼が申の村に攻め込んだ日
其れは後に「鬼の刻」と呼ばれるように成り
鬼は恐怖の象徴となった
同時に開始された年に一度、鬼が棲む島へと人を派遣する遣鬼使という制度
当初無謀ともされたその制度は、人々の希望も虚しく、止むことはなく、今日まで継続されていた
その制度から領主が鬼について深い関心を持っている事が伺い知れた
然し、此れまで派遣された遣鬼使達が帰ってきたことは一度もなく、遣鬼使になることは同時に死を意味することされた
領主は戌、申、雉の三つの村だけでなく、更に十以上の村の征服に成功していた
其の力は留まることを知らず、全国統一を成し得た豊臣家からも一目を置かれる存在となっていた
だからこそ民衆は、遣鬼使の制度に反対できる事もなく、恐怖で一揆すら成し得ぬ徹底された支配の下、細々と暮らす事を余儀なくされていた
年貢は年々厳しく成り、飢饉に喘ぐ村もあった
事実
征服した村の幾つかは、此の十年の間で滅んでいた
城では、才蔵が竜馬と成り、正式に大駒四幹部となっていた
童子切安綱を携え、鬼をも切ると言われる 「竜王」具教
知識と武器を選ばぬ武の才を持つ 「竜馬」才蔵
一番目の妾であり薙刀を自在に操る妖艶な軍師 「飛車」鶴姫
躊躇いなく人の首を刈る鎖鎌の使い手 「角行」梅喧
領主と其れを囲む布陣は、正に死角のないものとなっていた
与一は桃と固く繋いだ手を握り返し、回想に耽っていた
昨年、雉の村の遣鬼使は与一の父、総士だった
当然、与一や妹の御前、総士の妻の御笠は反対した
其の頃、御笠が病により体調を崩す事が多くなっていたことも反対する理由の一つだった
反対する家族に総士は言った
「どちらにしろ、遣鬼使は出さなきゃいけないだろ。
いつ何処で死んだって可笑しくはない
唯、無念を抱いたまま無様に死ぬのは嫌なんだ
与一には俺の弓術の全てを教えたつもりだし、御前の薬学の知識は俺より上だ」
御笠は納得のいかない表情で総士を見つめる
総士は続ける
「此れだけ幸せでいれたのも、一人の女を愛する喜びを知れたのも、ぜーんぶお前のお陰だよ、御笠。
鬼ヶ島に行ったら生きて帰れないかも知れない。
でも、俺はどんな形になったって、お前を愛し続けるよ」
与一の心中は複雑だった
父は昔から優しく、強かった
そして誰よりも家族を愛してくれた
其の判断は、いつだって正しかったように思う
其れ故父は誇りで、自慢だった
長い間言えずにいた言葉を与一は其の時言い放った
「父上、僕が行きます。遣鬼使になることは、あの日からずっと決意していました。
桃も同じ気持ちで、桃と共に行くつもりでした。
今まで黙っていて。申し訳ございません。」
驚愕の表情を浮かべたのは総士ではなく御笠と御前
総士は穏やかに、そして厳しく言う
「勿論わかっていたさ
だけどな、未来あるお前を先に行かせるなんてことは出来ない
お前が行くのは、俺の後だ
其れは未だ未だ足りない。
お前はもう少し、母と妹と居ろ。
其れが孝行というもの。
今回の派遣で終わりになればいいがな
其れは誰にもわからん」
与一はまた、父の偉大さに気付かされた
総士は気付いていたのだ
遣鬼使は言わば生贄のようなもの
どんな手練れであろうと、生きて帰ってはこれない
然し、万が一、億が一にも遣鬼使という制度が今年で終わりになるならば、遣鬼使になりたがっている息子を救える
家族を護りたいという気持ちが、総士を其の考えに至らせた
そして何時もの優しい表情に戻ると、与一を手で招き、そっと耳打ちをした
「与一。ずっと一緒に居たかったが、そうもいかない
俺がもし、帰る事が出来なかったなら、悪いがお前が御笠達を支えてやってくれないか
与一。男として、父として今お前に言う
後悔だけはするな
何度立ち止まっても、失敗したって悩んだって良い
時には間違える事もある
然し、其れら総てがお前が歩んだ道だ
いつか人生を振り返った時に、どんな辛かった事も笑い飛ばせる日が来る
後悔せず、良い人生を送れ」
総士にとって与一は息子であり、男同士である
無意識にも自分の姿を重ねてしまう
大丈夫、与一は強く、優しい立派な青年に育っている
「本当に良い人生だった」
総士は其れ以上何も語らなかった
与一にも総士の優しさが伝わったのだろう
珍しく歯を食い縛って泪を流していた
御笠と御前も状況を理解し、唯々総士の逞しい背中で泣くだけだった
そうして総士は、鬼ヶ島へ発った
其の日から一年が経った
与一は父との別れの日を思い出し、泪が落ちるのを我慢した
桃が問う
「泣いているの?
大丈夫、私も怖い
でも終わらせなきゃ
此れは間違ってるから
ううん、もしかして、総士さんのこと?」
与一は泪を隠す様に上を向く
大きな目で自分を見つめる桃に心配させないように、首を横に振った
僕は桃を護りたい
怖い思いもさせたくない
いや、もう誰にも悲しい思いはさせたくない
大丈夫、僕は勇敢な総士の息子
与一が前を向く
目の前には御笠と御前
どちらの目も赤く腫れていた
「母上、伝えたい言葉は昨日全てお伝えしたつもりです
貴方の泪を見たら決意が鈍ります
どうか今日は、笑顔で送り出してください」
与一がそう言い終わると、御笠は泪を無理やり抑え込みながら、笑顔を見せた
堪え切れず泣き出したのは妹の御前だった
十四歳になってもなお、妹思いの兄が大好きだった
昨年総士が鬼ヶ島へ行ってからは、父親の役目もしてくれた
御前を抱き締める与一
「兄はいつでもお前の傍にいる
桃も一緒だし、玄信殿も一緒だから大丈夫だよ
母上を頼んだぞ」
御前の泪は止まらなかった
その間、桃は昨日の出来事を思い返していた
・・・
「明日だね、大丈夫かな私」
穏やかに流れる川のほとり
月がまん丸の円を描いて輝く神秘的な夜
桃と与一は少し距離を置いて座り、明日の話しをしていた
「安心しろ、僕が付いてるから
なんて格好良い言葉が言えたら良いけど、少し不安があるのは事実かな」
与一は正直に言う
「与一は変わらないね昔から
本当に優しくて、正直で
ここまで気を遣わないでいられる人は貴方だけ
大丈夫、貴方が居れば私も強くなれる
幼馴染だからかな」
桃の言葉に照れ笑いする与一
直ぐに其の表情は険しくなる
「どうしたの?」
不思議そうな顔をして与一の顔を覗き込む桃
与一は決心した様に口を開く
「桃、僕は誰にでも優しくするわけじゃない
誰にでも、正直に接するわけじゃない」
こんな日に言うなんて可笑しいとわかっていた
でも、もし自分に何かあって、この気持ちを伝えられなかったら、其れこそ死に切れない
だから、言おう
桃に本当の気持ちを
「桃、君が好き」
川のせせらぎが耳をつく
普段は静かな其の音のお陰で、沈黙も幾分かは我慢出来そうだ
桃は今どんな表情をしているだろう
怖くて顔を見つめる事は出来ない
其れより、さっきから心臓の鼓動が五月蝿い
桃に聴こえてしまう
与一は一度夜空に浮かぶ満月を見て
意を決した様に桃を見つめた
桃はただ与一を見つめ返していた
また時が止まる
桃の顔立ち
其れはまるで造形物のよう
束ねられた艶のある長い黒髪
形の整った眉
透き通る大きな瞳
筋の通った高い鼻
僅かに赤らんだ頬
桃色で程良く膨む唇
其の全てが計算し尽くされた様に完璧な比率で配置されている
其の横顔に、満月の優しい金色の光が照らされる
神秘的としか言いようがない
「綺麗だ・・・」
思わず与一の喉をついて出た言葉
唯々美しい
与一はまた、桃に心を奪われる
佳人薄命
与一の脳裏を過った四文字
事実、桃の母であるかぐやも若くして此の世を去っている
でもそうはさせない
桃には自分がついている
此の命を賭しても、桃だけは護りきりたい
外見だけじゃない
桃の魅力は其の内面にもある
誰に対しても分け隔てなく接し
決して不平不満を口にしない
誰からも好かれるが八方美人という言葉で表すのは少し違う
幼馴染として此れまで過ごしてきた二人
物心ついた時から、与一は桃に恋をしていた
いつの日にか幼馴染以上の関係になる事を望み始めた
桃は素晴らしい人間
だから自分がもっと琢磨しなければならない
想いを伝えるのはそれからだ
そう考えていた与一
こうして十六歳になり遣鬼使となる前日になっても自分が桃に相応しい人間になったと思えない
与一は桃を見つめながらも、桃の事を考えていた
「どれだけ綺麗な言葉を並べても、君への気持ちを表す言葉にならない
其れほど、桃が好き
君に相応しい男になれるのか自信はない
けど、ただ、君の傍に居たい」
やっとのことで吐き出せた言葉
振り絞ったはずの勇気も、桃の瞳に吸い込まれて、言葉が出なかった
初恋
女性に想いを伝えるのも初めてだった与一
恥ずかしいというより怖かった
でも、想いを伝えずにはいられない
月光の加減だろうか
桃は少しだけ微笑んでいる様に見える
与一の心臓の鼓動は止まらない
沈黙を続けていた桃が漸く口を開いた
「この世に生まれる全ての物には意味があるの」
桃の突然の発言に、与一は少し驚きながらも同感だと答えた
桃は続ける
「私は、私の名である桃
其の花が好き
桃の花もそう、言の葉を秘めてる」
「どんな意味があるの」
「言わないよ、恥ずかしいから。
だけどね、あなたへと向いてるよ。
その言の葉の意味」
今度は桃が恥ずかしそうに顔を赤らめる
与一には桃の花の持つ言葉の意味は分からない
然し桃の表情や態度から、与一の想いが届いた事は分かった
其れ以上二人に言葉は必要なかった
言葉も文字もない時代
其れでも人々が意思を疎通させていたように
二人は無言のまま、互いの気持ちを理解しようとしていた
与一は桃の肩を引き寄せる
桃は抵抗せず、優しく与一の両の目を交互に見つめながら目を閉じる
輝く満月の夜
薄っすらと川に映された二人の影
其れがゆっくりと重なる
初めて触れ合う唇
二人の想いが通じた事を意味している
どれ程の時間が経ったのだろう
強く抱き締め合っていた二人
最後にもう一度唇を合わせて離れる
「桃、遣鬼使が終わったら、全てのことが上手くいったら祝言を挙げてほしい
僕の想いは終生不変、考えておいてくれないか」
祝言とは現代で言う結婚のこと
与一の言葉は求婚を意味する
桃は静かに頷きながら言う
「どう答えれば良いかな
私の気持ちわかるよね
でもね、もう一度
全てが終わった後にもう一度
其の言葉が聞きたいな」
与一は其の言葉に強く頷いた
・・・
其れが二人の遣鬼使になる前の最後の夜
桃が回想を終えた頃には、与一は家族との話しを終えていた
午前十時には城から遣いが来る
桃と与一は互いの目を見つめ
無言のまま強く頷き合った
第五章
完