97、竜の花嫁
『カレン! 無事に俺たちの子を産んでくれてありがとう…!』
あんなに泣いて喜んだ日はない。
か弱い泣き声を上げて、まだ目も開いていない小さなルクレツィアをこの腕の中に初めて抱いた日の事を、ディートリヒは今でも鮮明に覚えている。
柔らかく温かな無垢の存在が…その小さな手でディートリヒの人差し指を確かに握った日の事を、決して忘れないだろう…。
ディートリヒはもう一歩踏み出す。
ルクレツィアがカレンと同じ体質である事が分かり、自分が側にいることで娘を死に至らしめてしまうかもしれないと絶望したあの夜も——帝都の屋敷から毎週届くルクレツィアについての報告書を読みながら、娘に会いたいと焦がれたあの辛い日々も、ヴァージン・ロードを進んでいく度に思い出していく。
『お父様は私がノーマンだからお嫌いなのですか?』
自分の腰に抱き付いて、泣きながら必死に縋り付いてきた娘の姿…ディートリヒは思わず、歩む足を止めてしまった。
「…お父様?」
隣からルクレツィアの戸惑う小さな声がする。
きっと、あの日がディートリヒにとっての大きな分岐点だった。
『私を見捨てないで』と泣くルクレツィアと向き合えたのは…自分達親子が再び絆を取り戻せたのは、この白い道の先にいる男のおかげなのだとディートリヒは分かっている。
「…………」
ディートリヒは何も言わずに、再び足の歩みを進めた。
あの日からルクレツィアの隣にはいつもヴィレンが居る。思い出されていたルクレツィアとのこれまでの思い出の中に、当たり前に登場するのだからディートリヒはつい笑みを浮かべてしまった。
(…そうか。この『ヴァージン・ロード』は花嫁の道というだけでなく…父親の覚悟を決めさせる道でもあるのかもしれない)
手離したくない娘の手を、この先にいる男になら預けてもいいと思えてきているから不思議だ。
あともう少しでヴィレンの元へと辿り着いてしまう…ディートリヒはルクレツィアにだけ聞こえる小さな声で話しかけた。
「ルクレツィア、これだけは覚えておいてくれ」
ルクレツィアがディートリヒを見上げると、ディートリヒもまたルクレツィアを優しい目で見下ろしていた。
「俺は、お前の父は…いつ何があっても、たとえ世界が敵になろうともお前を愛し守ってやるからな」
熱くなった目頭から溢れそうな涙を堪えて、ディートリヒは続ける。いつの日か娘に伝えた言葉を、もう一度…。
「お前を泣かせる者たちは、この父が全員倒してきてやるから…忘れるなよ」
ディートリヒはそう言ってから、ルクレツィアの手を優しく掴み、そしてヴィレンへと渡す。
「…だから分かったか、ヴィレン。二度と、ルクレツィアを傷付ける事をしたら…ただじゃおかないからな」
「分かってるよ」
ヴィレンはいつもの調子で生意気な笑顔を浮かべてルクレツィアの手を掴んだ。そして、ルクレツィアはディートリヒの元から一歩踏み出してヴィレンの隣に立つ。
今、娘が自分の元から夫の元へと…。
「ヴィレン」
ディートリヒは思わず引き止めるようにヴィレンへ呼びかけた。ヴィレンの娘と同じ紫の瞳がディートリヒへと向く。
「いいか。ルクレツィアを、必ず幸せしろ」
震える声で言ったディートリヒの顔を見てヴィレンも顔付きが変わり、いつもの生意気な表情ではなく真剣な表情を浮かべていた。
そして、ヴィレンは自分の人生の中で初めて相手を敬うように丁寧に頭を下げたのだった。
「はい、必ず彼女を幸せにすると誓います」
誠心誠意を込めて義父と約束したヴィレンは、姿勢を正しルクレツィアと見つめ合って笑い合う。二人はそのままディートリヒに背を向けて、一歩前に進んでいった。
「……あぁ、頼んだぞ」
涙とともにこぼれた、か細いディートリヒの声がヴィレンの耳に届いたのかは分からない。でも、ディートリヒはヴィレンなら大丈夫だと信じられた。
最前列の席を見れば、カレンが笑顔を浮かべて手を振っていた。ディートリヒは愛しの妻の元へと向かい、そして隣に腰を下ろす。
「パパ、お疲れ様」
そう言ってカレンに渡されたハンカチを見て、ディートリヒはやっと自分が泣いている事に気が付いた。
「…とても大変な役目だったよ。でも、何故かな…やり遂げたような、温かな気持ちになっている」
ディートリヒは恥ずかしそうに涙を拭っていた。
「この俺が、人前で涙を流す事になるとはな…」
「娘を送り出す父親なんて、皆そんなものよ」
カレンがそっと手を繋いできたので、ディートリヒも握り返す。
「…そうか。そういうものなのか」
ディートリヒは優しい満たされた笑顔を浮かべて、顔を上げた。
するとそこには、夫婦の証としてお揃いの結婚指輪をルクレツィアの左手の薬指に嵌めるヴィレンの姿があった——。
「俺はずっと今日という日を待ってた」
結婚指輪を嵌めた二人は向かい合い、ヴィレンがそっと丁寧な手付きでルクレツィアのベールを上げた。すると、彼女の魅力的な紫の瞳が現れて、自分を真っ直ぐに見つめている。
「ルーシーは、出会った日から今日まで…そしてこれからも変わらずに俺の光だ」
ヴィレンは眩しそうに目を細めながら言った。ヴィレンがルクレツィアと初めて出会った日、彼は彼女を見て衝撃を受けたのだ。
(始めは綺麗な子だと思った。一緒に過ごすうちに、まるでそう決められていたかのように俺はルーシーに恋をしていた)
いつの日かルクレツィアが言っていた言葉を思い出す。
『…リクがね、私とヴィレンの出会いは『運命であり必然だったんだ』って言ってたの』
「……運命、か」
そう呟いたヴィレンを見上げて、ルクレツィアが微笑む。
「ヴィレンは出会った日からずっと、私の太陽だよ」
これまで、色んな事があった。楽しい事も嬉しい事も、辛い事も、悲しい事も…全部、ルクレツィアはヴィレンと共に乗り越えてきたのだ。
「貴方は暗闇の中で彷徨う私を照らす光であり、温かく包み込んでくれる太陽のような人だよ」
ルクレツィアとヴィレンは、周りなんて見えちゃいない様子でお互いだけを見つめていた。
「愛してるよ、俺だけのルーシー」
「うん、私も愛してる…」
ヴィレンは幸せそうに微笑みながら、目の前の愛おしい妻の美しい花嫁姿に、胸の奥から込み上がってくる幸福感を噛み締めていた。
そして、二人は愛を誓い合ってキスをする。その瞬間、参列者達が感動した様子で拍手した。
重ねただけの唇をゆっくり離すと、ヴィレンの顔が再び近付いてきた。
「…ヴィレン?」
拍手喝采の中、驚くルクレツィアにヴィレンは二人だけにしか聞こえないような囁き声で…。
「悪ぃ、もう一回…」
「えっ?」
見れば、ヴィレンは欲情したような表情を浮かべているではないか。
「俺、やっとルーシーとキス以上の事が出来るんだと思ったら…」
我慢出来なくて。と、続くヴィレンの言葉にルクレツィアは顔を真っ赤にさせた。
鳴り止まない拍手のおかげで、二人の会話は誰にも聞こえていないようだけれど…。
「今夜、覚悟しろよ。嫌ってほど愛してやる」
「もうっ、ヴィレンったら…」
言葉を遮るように再び重ねられた唇。人前なので流石に激しいキスではなかったけれど、それでもルクレツィアにとってはこれまでの中で一番ドキドキしたキスだった。
皆に祝福される竜の花嫁は、最愛の夫に愛されながら、家族と共にこれからも幸せに暮らしていくのだろう。
これは、一人のちっぽけだった少女の物語だ。
嫌われ者だった彼女が一人の竜の少年と出会い、父親との絆を取り戻した物語。
愛される喜びを知った彼女が、周りの者の心を救い変わる勇気を与えた物語。
愛する尊さを知った彼女が、竜の少年と一生限りの恋と愛を誓い合う物語。
彼女の愛と幸せに満ちあふれた物語はこれからもたくさん紡がれていく。
まだ、終わりではないのだ。これまでの物語は彼女の人生のほんの序章に過ぎないのだから——。




