75、母の導きと父の正義
ルクレツィアは今度こそ、三人に別れの挨拶を告げて玄関に立った。
靴を履き終えて後ろを振り返ると、カリン達が寂しそうな顔でこちらを見つめている。
ルクレツィアは母カレンの日記帳と写真を大事そうに抱きしめたまま、異世界の家族に言う。
「皆さん、お元気で…私の唯一の従姉妹カリン、大好きだよ」
カリンとはまだ一日とない短い付き合いだが、それでも彼女の温かな心に触れた。
彼女の隣の居心地良さに、もしカリンと同じ世界に生まれていたら自分たちはきっと唯一無二の親友になれたのだろう。と、ルクレツィアは思う。
「うん、私も! 大好きだよ!」
さっきまであんなに泣いていたのに…カリンは泣き腫らした目で懸命に笑顔を浮かべていた。
(うん。そうだね、カリン…別れこそ笑顔でいよう)
そういうところも、ルクレツィアがカリンの好きなところだった。
ルクレツィアが玄関の扉を開くと…そこは、外の風景ではなく真っ暗な異空間だった。
(あ、これ…氷の扉だ)
すぐにそう理解したルクレツィア。彼女が異空間を眺めていると、奥からカレンの白い手が現れる。その手を掴もうと、手を伸ばしたら…。
初めて、手だけではなくカレンが姿を現したのだ。
(あ…姉さん…?)
ルクレツィアを後ろから見守っていた叔父が目を開く。
「………っ」
祖母は声が出ないようで、カレンを見つめたまま固まっていた。
ルクレツィアは写真の中ではない母を初めて目にして、驚いた顔でカレンを見上げる。
カレンは笑顔だった。幸せそうに笑って、叔父や祖母に手を振っていた。そして、ルクレツィアに優しい目を向ける。
『戻ろうか』。その言葉の代わりに手を差し出してきたカレン。ルクレツィアは迷うことなく母の手を取った。
ルクレツィアが異空間の中へと足を踏み入れると、玄関の扉が勝手にしまっていく。カリンと、叔父と祖母を振り返り、ルクレツィアもまた笑顔で手を振ったのだった。
——ぱたん。
玄関の扉が閉まると、そこには静かに涙する三人だけが取り残されていた。
カレンが姿を見せた時、祖母と叔父の二人はすぐに彼女はもう生きた人間ではない事が分かった。でも…。
「…花怜、あの子…ちゃんと幸せなのね」
あの笑顔を見れば分かる。カレンはちゃんと、幸せな一生を過ごしたのだと。
祖母が泣きながらそう言うと、叔父も涙を流しながら頷き、そして付け加える。
「そうだね。でも、あの姉さんの笑顔は…僕たちに自分の娘を自慢してる顔だったよ」
姉は昔から、弟の自分に何かを自慢するとき、いつもあの笑顔を浮かべるのだ。叔父は昔の懐かしいカレンを思い出しながら、姉さんらしいな。と、思い声を上げて笑ったのだった。
*
ルクレツィアはカレンと手を繋ぎ、共に異空間の中を歩いていた。すると、カレンが初めてルクレツィアに声を掛けてきた。
「ルクレツィアの将来の夢は何?」
「え…将来の夢ですか…?」
ルクレツィアは未来の自分の姿を漠然と考えてみる。
「うーん…じゃあ、聞き方を変えようかな?」
困った様子のルクレツィアを眺めていたカレンが可笑しそうに笑って、改めて問い掛ける。
「貴女はこれから『何』になりたい?」
ルクレツィアが何かを答える前に、カレンは明るく笑いながら続けた。
「ねぇ、ルクレツィア!」
カレンはルクレツィアと手を繋いだまま、両手を広げて明るい笑顔で言った。
「異世界人は何にだってなれるのよ!」
すると、前の方から強い光が差し込んできて…。
ルクレツィアは光に包まれながらもカレンを見つめていた。今、はじめてルクレツィアの中で答えが出た気がしたのだ。
「私の可愛いルクレツィア、貴女はこの世界で何を成し遂げたいの?」
その時、カレンとは反対の肩を誰かに叩かれたルクレツィア。それはリクで、彼は振り返るルクレツィアの顔を覗き込みながら笑って言うのだ。
「ねぇ。君の未来に、僕の夢と魔法も連れて行って」
(そうだね、リク。私たち、一緒にヴィレンを迎えに行こう)
リクに頷くルクレツィアを見つめて、カレンは悪戯っ子のような顔で楽しそうに笑いながら言った。
「ルクレツィア、貴女の望みを叶えるために…ここはもう、私たちの愛するパパに頼っちゃおう!」
——強すぎる光に思わず目を瞑っていたルクレツィアが再び目を開けると、目の前に驚いた顔でこちらを見つめるディートリヒが立っていた。
「…ルクレツィア?」
ルクレツィアも驚いて周りを見渡すとここはどうやらイスラーク城で、ルクレツィアはたった今氷の扉から出てきたところだった。
「何となく…誰かに呼ばれた気がしてここに来たんだが…」
ディートリヒにも分からないが、何となく足が向いて氷の扉の前にやって来ていた。すると、中からルクレツィアが出てきたのだ。
「…あれ…私…?」
ついさっきまでカレンやリクと話していた筈なのに…ルクレツィアにも状況が良く分からなかったが、でも、ずっと会いたかった父親の姿を前に思わず涙がこぼれ落ちる。
「ルクレツィア…どうしたんだ……その姿は、一体…!?」
ディートリヒが驚くのも無理はなかった。何故なら人間であった筈のルクレツィアの背に竜の翼が生え、そしてその紫の瞳にはヴィレンと同じ縦長の瞳孔が揺れていたから。
そう、ルクレツィアは願ったのだ。心の底から…ヴィレンと共にありたいと。この世界で成し遂げたいことは、彼を救うことなのだと。
そして、リクの『夢』は空を飛ぶことだった。
異世界人はその変質性から、無限の可能性を秘めている。
カレンと出会った後のディートリヒが数少ない文献を読み漁り、知り得た知識だ。しかし、まさか…。
(その無限の可能性が…まさか、種族までをも変質させる事が出来るなんて…)
ディートリヒはこの時初めて、異世界人とこの世界の人族は違う種族なのだということを知った。
「…お父様」
涙をこぼしながらルクレツィアがディートリヒを呼ぶ。ディートリヒはハッとして、娘に目を向けた。
「ヴィレンが行っちゃったの…」
トーヤからヴィレンの正体を聞かされていたディートリヒは、すぐに状況を把握する事が出来た。
「私…ヴィレンと離れたくないよ…」
「大丈夫だ、ルクレツィア」
ディートリヒはルクレツィアを強く抱きしめる。どんな姿であれ、種族が変わったとしても…ルクレツィアはディートリヒの最愛の娘に変わらないのだ。
「ヴィレンの事は任せろ。引き摺ってでも連れ戻して、お前の前で頭を下げさせてやるから」
だから、ディートリヒがやるべき事はただ一つ。元魔王だろうが何だろうが、ディートリヒには至極どうでもいい。
「お前を泣かせる者たちは、この父が全員倒してきてやる」
そう、ただそれだけが…ディートリヒにとっての正義であり真理なのだから。
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