74、二人の宝石
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——ルクレツィアは静かに本を閉じる。
仏間にはカリンや叔父、そして祖母の姿は無かった。ルクレツィアを一人にしてあげようと、リビングで彼女を待っているのだろう。
ルクレツィアの目からは涙が止まらなくて、悲しくて、辛くて…ヴィレンやサラ達の事を思うと胸が張り裂けそうだった。
彼女は母親の仏壇の前に座っていて、優しく微笑む遺影の中のカレンを見上げた。
「…お母様。6年前の私も、この物語を読んだのですか?」
どうして自分は、こんな大事な事を忘れていたんだろう、と…ルクレツィアは自身を責めた。
「私…どうして忘れちゃってたんだろう…」
すると、ルクレツィアの呟きに答えるように「仕方ないよ」と、横から声が聞こえた。
ルクレツィアは慌てて隣に目を向けると…そこには、知らない黒髪の青年がいた。
いつの日か見た、ヴィレンの黒い瞳と同じ目でルクレツィアに笑いかけるその人は、体が透けて向こう側が見えることから生きている人ではないのだと、ルクレツィアはすぐに分かった。
「……リク?」
ルクレツィアが尋ねると、青年は頷く。黒い指輪にかけられていた防御魔法はリクの魔法だった。
ルクレツィアはふと、初めてヴィレンから『竜の心臓』を受け取った日のことを思い出す。黒い結晶宝石の中には、何かがキラキラと輝いていたことを…。
(あれは、リク…貴方だったのね)
リクはずっと、ヴィレンを守っていたんだ。
「リク。貴方にお礼が言いたかったの。守ってくれて…ここまで導いてくれてありがとう」
ルクレツィアが礼を言うと、リクは嬉しそうに微笑んでいた。
「君が前回忘れてしまったのも、仕方がないんだ。ちゃんとした儀式を行わない異界渡りはそれだけ負荷がかかる事だから…まだ子供だった君がそれに耐えられる筈がなかった」
しかしすぐに困った表情を浮かべて、先ほどのルクレツィアの問いに答えるようにリクは説明した。
「…だから、こちらで過ごした時間を全て忘れてしまっていたのだと思う…それは、こちらへ連れて来たカレンさんにもどうする事も出来なかったみたいだよ」
リクの説明にルクレツィアは不安になる。
「…じゃあ、私があちらの世界に戻ったら、また忘れてしまうの?」
すると、リクは首を横に振って、今度は頼もしい笑顔を浮かべて言うのだ。
「大丈夫。今回は僕がいるからね。ルクレツィアさんがまた忘れてしまわないように、僕が魔法で負荷から守るよ」
リクは透けた手を伸ばしてきて、そっとルクレツィアの右手で輝く黒い指輪に触れる。
「きっとね、ヴィレンとルクレツィアさんの出会いは運命であり必然だったんだ。ヴィレンが君に恋をして、僕の魔法が宿る『竜の心臓』を贈ったことも、全部…」
一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべたリクだったが、すぐに優しい表情で笑ってルクレツィアへ覚悟を決めた強い眼差しを向ける。
「ルクレツィアさん。僕と一緒にヴィレンと……そして、紗良と優吾を救ってくれる?」
二人が君に迷惑をかけているのにこんな事を頼むのも申し訳ないけど…。と、バツの悪そうな顔でリクが続けたので、ルクレツィアはリクの手を握りしめながら答えた。
「うん、もちろんだよ。力を貸して、リク」
「…ありがとう、ルクレツィアさん」
ルクレツィアとリクは目に涙を浮かべたまま目を合わせると、微笑み合った。
「僕はきっと、あちらの世界ではこうして誰かと話す事なんて出来ないと思うんだ」
リクは続ける。
「ただの魔法の残滓のような存在の僕が意志を持って君と話せているのも、氷の扉が力を貸してくれているからなんだ…」
ルクレツィアはリクの話を聞いて、イスラーク城の氷の扉を造った者は、一体何者なんだろうと思った。
(確か、初代のクラウベルク公爵が造ったとされる魔法の扉だけれど…)
と、そこまで考えたルクレツィアだったが、今は自分たちの事に集中しようとリクの話に意識を戻す。
「だからさ、僕の代わりにあの馬鹿な三人に言っておいてよ。それ以上、馬鹿な事をするなら絶交だってね」
ルクレツィアは肩を竦めながら笑って、リクと約束した。
「安心して。絶対に伝えておくから」
カリン達三人が居間でルクレツィアを待っていると、ルクレツィアが姿を現した。
「ルーちゃん!」
カリンはぱぁっと明るい笑顔を浮かべてルクレツィアの元へと駆けて行く。
「日記は読み終えた? ねぇ、これから私と外に遊びに行かない? 街を案内したげる!」
カリンはルクレツィアと遊びたいようで、甘えるようにルクレツィアの手を掴んでグイグイと引っ張った。
ルクレツィアも、カリン達とまだ一緒に過ごしていたいけれど…。
「…カリン、ごめんね」
繋がれたカリンの手を、改めて繋ぎ直すルクレツィア。
「私、もう帰らなくちゃ」
すると、カリンは少し傷付いたような顔をして…けれど、すぐに明るい笑顔を浮かべて言った。
「…そうなんだ! じゃあ、また次回だね。次はいつ来る? もう6年なんて長い時間待てないんだからね。次は早くこっちに来てよ!」
ルクレツィアは申し訳なさそうに笑って、カリンの手を握り締める手に力を込める。
「多分…もう、こちらには来られないと思うの」
きっと、そう何度も異界渡りが出来るはずない。氷の扉とカレンとリクが居て初めて、ルクレツィアは記憶を失う事なく異界渡りが出来たのだ。
ルクレツィアはカリンと確約できない約束を、簡単に交わしたくは無かった。いつまでも待ち続ける日々は、とても辛いと知っているから…。
「…な…なんで…」
笑顔を浮かべていたカリンが目に涙を浮かべる。
「じゃあ…もう少しだけここに居てよ。私たち、従姉妹なんだからさ…! だから、忘れられないくらいの思い出を作って、それから帰ればいいじゃん!」
そして、ポロポロと涙を流して、ルクレツィアにまだ帰らないでくれと懇願するカリン。ルクレツィアはカリンの細い肩をそっと抱き締める。
「…ごめんなさい。私の事を待ってる人がいるから…もう行かなくちゃ」
「花梨」
叔父がルクレツィアに縋って泣くカリンに声を掛ける。
「ルクレツィアには、今やらなければならない事があるんだろう」
カリンは涙に濡れた顔を上げて「でも…寂しいよ…」と、悲しそうに呟いた。
そんな中、祖母が出来るだけ明るい声で提案した。
「もう一度、貴女たち二人の写真を撮りましょうよ」
すると叔父は涙目のまま笑って頷いて、カリンも渋々ルクレツィアから離れた。
ルクレツィアはカリンと写真を撮った。成長した二人の写真は、きっと前に撮った写真の隣に飾られるのだろう。
(私もカリンとの出会いを残せる何かが欲しいな…)
そう思ったけれどルクレツィアにはいい案が思い浮かばなかったので、ぐっと我慢する事にした。
自分が今日という日を忘れなければいい話だ。前回のことはやっぱり思い出せないけれど…でも、今日の事は絶対に忘れない。
ルクレツィアはそう胸に誓って、彼らと最後に抱き合ってから別れの挨拶をする。
「元気でね、ルーちゃん。もう会えなくても、私は貴女の幸せと健康を祈り続けているわ」
「ありがとうございます。おばあ様」
「大人びていても、君はまだ子どもなんだ。ルクレツィアのやるべき事が何なのか、僕には分からないけれど…困ったらちゃんと、周りの大人を頼りなさい」
「はい、叔父様。そうします」
祖母と叔父と抱き合った後、ルクレツィアは最後に改めてカリンへ目を向けた。
「…ルーちゃん…これ…」
カリンは泣くのを我慢した表情のまま、何かをルクレツィアに差し出す。見ると、それは子供の頃に撮ったというルクレツィアとカリンの写真だった。
「私たちの事、忘れないでね…この写真、あげる」
「…いいの?」
ルクレツィアが尋ねると「うん、写真はまた現像すればいいから」と、カリンは笑った。
「今日撮った写真は現像が間に合わないけど…でも、せめてこれだけでも…!」
ルクレツィアは力いっぱいにカリンを抱き締める。ルクレツィアだって、ものすごく寂しいのだ。もう、また会える保証のない家族とこれっきりだなんて…。
「ルーちゃんの願いが、全て叶いますように…」
ルクレツィアの腕の中で、カリンが呟いた。
カリンはルクレツィアから漂う冬の空のような澄んだ匂いを思い切り吸い込んで、吐き出す。
「ルーちゃん、辛いことがあったんだよね?」
「カリン…?」
「顔を見れば分かるよ。前回と比べて…ルーちゃん、全然笑わないんだもん…」
ルクレツィアはカレンの言葉に目を開く。自分はよっぽど、余裕のない顔をしていたんだなと反省した。
「あのね、私の名前…果物の梨の字が入ってるんだけど…冬に強い木なんだ。厳しい寒さに耐えて、春に花を咲かすの。えっと、何が言いたいかというと…」
カリンはルクレツィアから少し離れて顔を上げると、彼女の綺麗な紫色の瞳を見つめた。
「冬が終われば必ず春が来るよ。だからね、ルーちゃんが今辛くても、その先に必ず温かな未来が待ってるから。…笑って、ルーちゃんを待ってるその人のところに行ってあげてね」
カリンの言葉にルクレツィアは笑った。
「うん…素敵な言葉をありがとう!」




