6、約束の不履行とその代償
「……い、今なんと…?」
日差しが窓から差し込む昼下がり、マルドゥセル魔導帝国皇帝であるマルセル・ティア・マルドゥセルは、窓の外に広がる雲ひとつない青空のように青褪めた顔をしていた。
彼の目の前に座る人物は落ち着いた様子で紅茶を啜っている。
「…正気か…!?」
相手の答えを待つ気も無かったマルセルは更に尋ねた。
「あぁ、今お伝えした通り…」
皇帝陛下の来客人ディートリヒ・ヴィル・クラウベルクは、統治者然とした余裕のある態度で静かにティーカップを置くと、自分の対面に座るマルセルに鋭い目を向ける。
「俺の娘ルクレツィアとユーリ皇子との婚約を白紙に戻して頂く」
ディートリヒの申し出にマルセルは、何も聞こえないと言いながら両耳を塞ぎたい気持ちになった。
今朝、クラウベルク公爵から皇帝への謁見要請が来た。いつもこちらが呼ばないと皇宮には近付きもしないくせに珍しいな、と思いながらもマルセルは快くその要請を受け入れて、謁見室ではなく特別に皇帝のプライベートルームに招いたのだ。
(まさか、このような話だとは思わなかった…)
ディートリヒが何故突然このような事を言い出したのか…もう何年も良き関係を築いてきたのに、彼の心変わりの理由が知りたいと思ったマルセル。
「何故そのような事を急に…理由はなんだ!?」
するとディートリヒはとても冷ややかな笑みを浮かべてマルセルの質問に質問で返した。
「…本当に理由が分からないのか?」
その瞬間、マルセルはまるで魔王に心臓を鷲掴みにされたような気分に陥り、ゾッとする。
ディートリヒの明確な怒りは伝わってくるのだが、マルセルには彼を怒らせた理由に全く心当たりがなかった。
北の領地の統治についてマルセルは徹底して静観する態度を貫いている。ディートリヒの治める北の領地は名目上マルドゥセル魔導帝国の領地なのだが、実際にはすでに皇族の手から離れた領地と言えた。
帝国に二つあるうちの一つの魔塔を所有しており、更に公爵自身がその魔塔の主として君臨し、この国…いや大陸を探してもこれ程にも優秀な魔術師はいないだろうと断言出来るほどの逸材。だから皆、畏怖と尊敬の気持ちを込めて彼を『北の氷《《王》》』と呼ぶ。
つまり、マルセルはディートリヒと敵対したくないのだ。だからこそ確かな繋がりが欲しくて、彼が娘の後見人を探していると聞いた時にはすぐさま飛びつき、そして確実なものとするため息子のユーリと彼の娘の婚約を提案した。
計算外だったのは、まだ赤子だったルクレツィアが成長しても魔法を使えない劣等国民…つまりノーマンだったこと。
「俺の娘ルクレツィアは…貴族たちに『ノーマン』と差別されているみたいだな」
マルセルはハッとした。ディートリヒの怒りの理由に気付いたのだ。
「そ、それは…っ」
「やはり知っていたか…」
マルセルの戸惑う態度からディートリヒは確信し、諦めたような乾いた笑みを浮かべる。
マルセルは驚きを隠せないでいた。長年娘を帝都に残し放っておいたように見えたし、ディートリヒはルクレツィアに無関心だと思っていたからだ。
あの子はノーマンだしな、と皇帝も当然のように納得していた。偉大なる魔術師が、いくら実の娘だとしてもただのノーマンに関心を寄せる事などあり得ないと思っていたから。
「……それについては、皇后もユーリもルクレツィアのためを思い常に尽力している。…私だってそうだ」
マルセルは咄嗟に嘘をついて、その場を取り繕うことにした。
実のところ、マルセルはルクレツィアに対しディートリヒとの繋がりという意味でしか価値は見出していないし、彼女の境遇がどうであろうと興味も無かった。偉大な魔術師と同じ血が流れてはいるが恥ずべきノーマンの、父親からも見捨てられたちっぽけな存在がどうなろうと…。
「……そうか」
ディートリヒの返事にマルセルはホッとする。これまでの過去がどうであれ、ディートリヒの関心がルクレツィアにあると分かったからには、これからは彼女の待遇を良くするために努めていこうと思った。
「…しかし、貴族たちには本当に困ったものだよ…」
マルセルはハハッと軽く笑いながら帝国貴族たちに責任転嫁していた。そんな皇帝を冷めた目で見つめていたディートリヒが静かに口を開く。
「皇族が娘のために尽力していたのに…ではなぜ、俺の娘は泣いていたんだ?」
その瞬間、マルセルの笑い声は途絶えて、そしてシン…と静まる室内にディートリヒの声だけが響いた。
「何故、俺の娘は自分に価値がないのだと思っている? 自分がノーマンだから嫌っているのかと、何故俺に尋ねてくる?」
今日は快晴の天気で外の気温は温かく過ごしやすい。…はずなのに、室内の温度がどんどん冷えていく。氷王の怒りがそのまま文字通り空気を凍り付かせている。
「何故、俺の娘は見捨てないでくれと泣いていたんだ!?」
「ひぃ!?」
ディートリヒの怒声とあまりの威圧感にマルセルは後ろへ仰け反った。すでに氷点下を超えた寒さにガタガタと身体が震えはじめ、そしてマルセルの髪や睫毛に霜が降りてきていた。
マルセルはどうやらこの国の偉大な魔術師の怒りを買ったらしい。それも、誰もが『魔力なし』と蔑み取るに足らない娘のことが原因で…。
この状況をどう抜け出せばいいのか、マルセルは頭の中で必死に考え続けた。
「…ルクレツィアは領地へ連れ帰る。もう皇族の保護は必要ない」
ディートリヒはマルセルにそう告げながら、表には出さないが心の底からヴィレンの存在に感謝していた。あの竜がいなければ、自分はルクレツィアを守る事も出来なかっただろうから。
「……クラウベルク公爵に預けていた防衛前線の指揮権はどうなる…?」
マルセルは凍えながらか細い声で尋ねた。
マルドゥセル魔導帝国を他の勢力から守る防衛前線…ディートリヒがルクレツィアの保護を皇族に頼む代償として指揮官を引き受けていたものだ。
「…勿論、皇帝陛下へお返しする。それに伴い俺の兵も引き上げさせてもらうが」
「そ、それは非常に困る!」
マルセルは怯えながらも異議を申し立てた。決して帝国の兵士は弱くないしディートリヒの権力に依存するような低い国力ではないが、それでもディートリヒがいればより屈強なものとなる。それこそ、周りの国を簡単に牽制できる程に。約10年間、帝国はそうして他国に優勢な関係を築いてきたのだ。
そのディートリヒが退いたとなれば、彼の代わりを引き受けるのは帝国の兵士たちだ。そのための新たな兵を防衛前線に導入しなくてはならない、今までやらなくて良かったことをするなんて…帝国にとって大きな損害となる。
「帝国の兵士だけでも前線は保たれる筈だ、彼らは弱くない」
ディートリヒの言葉にマルセルは悔しさから歯を食いしばる。
「勿論、帝国貴族として周りの貴族たちと同じように最低限の兵力は派遣するが、俺の領地の防衛力を割いてまで、力を貸す義理はもはや無い」
「…頼む、ディートリヒっ!」
情けないがマルセルは彼に頭を下げた。そんな皇帝を静かに見つめてから…ディートリヒは言った。
「約束不履行、というやつだな」
ディートリヒの言葉に、マルセルは下げていた頭を上げて目の前の彼を見る。その目には恐れの色が滲んでいた。
「先に約束を反故にしたのはそちらだ…」
ルクレツィアの保護を怠り傍観していた皇族に責任があると…ディートリヒは言っている。
「あまりにも聞き分けが悪いと…お前の国が小さくなるぞ、マルセル」
「…………」
かつて級友だった彼からの領地戦も厭わないと示唆するような言葉に、マルセルはそれ以上口を開かず項垂れてから頷いたのだった。