59、『Lucy—光—』
——ユーリ・ティア・マルドゥセルには物心つく頃から婚約者がいた。
その婚約者は『魔力なし』だと嫌われていて、いつも一人で泣いている子だった。
子供の頃からユーリはとても『いい子』で、そのように振る舞えば父も母も周りの皆も全員が褒めてくれるからユーリはますます『いい子』になろうと努力した。
「さぁ、ユーリ殿下。お勉強の時間ですよ」
(先生が来ちゃった…僕、本当はもっと遊びたいんだけどなぁ…)
「お前は将来、立派な皇帝とならねばならない」
(父上、僕…本当は獣医になりたい…でも、仕方ないか)
「常に正しく優しい完璧な皇帝となり民を導くのです。それでこそ、私のユーリ…出来ますね?」
(母上…僕は………)
ユーリはいつからか疑問を感じるようになっていた。果たして、今の自分に『自分のもの』はあるのだろうか? 『本当の自分』はこの世に存在しているのだろうか?
自分の人格や人生すら、『自分のもの』ではないのに…。
息苦しくなっていく毎日。そんな時にユーリはルクレツィアがいた事を思い出す。
(そうだった、僕には婚約者がいたじゃないか。誰のものでもない、今度こそ『僕だけの』婚約者)
皆に嫌われているノーマンの婚約者だろうが構わなかった。裏を返せば、彼女には自分だけだという事…ルクレツィアがいれば、自分は『ユーリ』でいられる気がしたから。
(ルクレツィア嬢が泣いてる…でも、仕方ないんじゃないかな。僕もこうして耐えているんだから、彼女も耐えていくべきだ…。でも、僕だけは彼女に優しくしてあげようかな)
そんな自分の事だけを考えていたユーリは、ルクレツィアの心の傷を見ない振りをして過ごし続けていたのだった。
いつからかルクレツィアは自分にも笑わなくなり、俯いて過ごすようになった。いつも泣いているか怒っているかの女の子。ユーリも正直うんざりしていたけれど、彼女の手を離すつもりは全くなかった。
(僕が皇帝になった時に、彼女の周りの環境を改善してあげよう)
さすがにルクレツィアが皇后になれば、周りの態度も変わるだろうとユーリは考えていた。
(…だとしたら、彼女のために僕が少しでも早く皇帝になってあげなくちゃだね)
そう考えていた矢先、ルクレツィアの前にヴィレンが現れる。初めて二人が並んでいる姿を見た時、ユーリは衝撃的だったのだ。
(どうして…僕にそんな笑顔、見せた事なんて一度もなかったじゃないか…)
ヴィレンに向ける、ルクレツィアの心からの笑顔。それはとても可愛くて、眩しくて…。
(僕の、唯一の『僕の』婚約者が…)
いや、そもそも始めからユーリのものは何ひとつなかったように思う。ルクレツィアの可愛い笑顔が自分には向けられない事が、証明しているではないか。
その瞬間、ユーリの世界はぐにゃりと湾曲した。この世界に『ユーリ』がいない事に、たった今気付いたのだ…。
でも、ユーリは諦めたくないと思った。必死にルクレツィアの後を追いかけて、いつか彼女に追いつき捕まえてみせると。
そう思ったら、これまで見えてこなかったものが見えるようになった。
反省と後悔を何度も繰り返し、今度こそルクレツィアに相応しい自分になれるよう努力したのだ。
いつしかその思いは確かな恋心となり、ユーリが本当に欲しいと思ったものへ恋焦がれた。
まるで贖罪のような毎日。自分は正真正銘、彼女に『ユーリ』を選んでもらうために人生を捧げてきたのだ——。
「ねぇ、…正しいって何?」
ユーリは涙を流しながら静かに問うた。
「じゃあ、僕のこの気持ちは…正しくないの?」
ルクレツィアを求め、後悔して、反省して、焦がれて…それ以上に、自分はあと何を捧げれば正しくなれるのか?
「僕はどうすれば貴女に許してもらえる?」
過去の自分の過ちを悔いて…悔いて、悔いてルクレツィアにその過ちを許して貰えるよう努力をした。
そうすれば、またルクレツィアは自分を選んでくれるという希望を胸に…でも、結局ルクレツィアが選んだのは自分以外の男だった。
「教えてよ、ルクレツィア。どうすれば僕は『ユーリ』になれるの? 貴女がいないと、僕には…『ユーリ』には何もないんだ…! それでどうやって、僕の存在を証明していけばいいんだよ!」
ルクレツィアを責め立てるようにユーリは叫んだ。ルクレツィアは目に涙を溜めて、苦しそうな表情でユーリを見上げながら、ぺち。と、彼の頬を優しく叩く。
「貴方は、今も昔も『ユーリ・ティア・マルドゥセル』ですよ」
そしてルクレツィアは涙を一筋流して続ける。
「自分で自分を否定したら駄目です。飾らなくても、無理に取り繕う必要なんてない…『自分は自分のままでいい』んです」
ルクレツィアもヴィレンに教えて貰った事だ。ユーリは目を開く。すごく簡単な言葉なのに、これまで一度も思いも寄らない言葉だった。
「私がいなくても…貴方はいつだって、自分の気持ち一つで『ユーリ』になれます」
もうルクレツィアはユーリに怯える必要はないと感じていた。彼女がゆっくり上体を起こすと、彼は戸惑う表情のままルクレツィアから離れていった。
「それに私は、ちゃんと『ユーリ』を知っています」
ルクレツィアは涙に濡れた目でニコッと明るく笑ってみせた。
『僕、きっと変わってみせるから。人の心に寄り添える皇帝になってみせるから、見てて』
いつの日か、ルクレツィアとユーリの別れ際で彼が約束してくれた事。
「人の心に寄り添おうと努力する貴方は、貴方以外の何者でもないじゃないですか」
「でも、それは…周りに求められている姿を演じていただけで…」
否定してくるユーリにルクレツィアは首を横に振る。
「たとえ始めはそうだったとして…でも、努力を続けたのはユーリ殿下、貴方です。私は殿下との6年間の文通を通して、その努力を知っています」
ルクレツィアが優しく微笑むと、ユーリはまた泣き出しそうな顔をした。まさかルクレツィアが、自分の努力を見てくれていたなんて思わなかったのだ…。
「それ、は…僕が貴女をずっと傷付けてきた事に気付いたから…僕のせいで泣いていた女の子に、罪滅ぼしをしたかったんだ…」
そして、再び涙をこぼすユーリ。
「あの時泣いていた10歳の女の子は、今ちゃんと幸せになっていますから…もう心配しないでください」
ルクレツィアは泣いているユーリをそっと抱きしめた。
「あの女の子を救いたいと、人の心の痛みに向き合おうと努力する貴方は、貴方以外の何者でもありません。周りの者が何も言わずとも、貴方は貴方らしさのままで素晴らしい皇帝となるでしょう」
ユーリの中にずっと残っていた過去の後悔が、解けていくようだった。
「だから、貴方ももう…過去の自分の事を許してあげてください」
ルクレツィアにそう言われて、ユーリは素直に頷く。もう自分を解放してあげよう。『優しい皇太子』と『過去の後悔』から。
ユーリは目を閉じて最後に強くルクレツィアを抱き締め返した。
今でも鮮明に思い出す。ルクレツィアとの長くも短い婚約者としての日々。
でも、やっぱり一番最後に思い出すのは、ヴィレンに向けた彼女のあの笑顔だった。
ユーリは悲しそうに微笑んでルクレツィアを腕の中から解放する。
(僕は、あの時にきっと貴女に恋をしたんだろうな…)
そう改めて自分の恋心を自覚したユーリは覚悟を決め、顔を上げてはルクレツィアを見つめた。
「ルクレツィア嬢、好きだよ」
ユーリは作りものじゃない、心からの笑顔を浮かべて言う。
「貴女は僕のこの思いが恋と錯覚していると思っているのかもしれないけど、僕のこの気持ちは本物だよ」
ルクレツィアは驚いた顔をして、そして少しだけ申し訳なさそうに小さく笑った。
「…優しい言葉で誤魔化さなくていい。ちゃんと振ってくれ」
ユーリがそう言うと、ルクレツィアは遠慮がちに頷いた。そして、彼女はこの恋に終止符を打つのだ。
「…ごめんなさい。ユーリ殿下。私、大好きな人がいるんです」
ルクレツィアの言葉に、ユーリは噛み締めるように目を閉じる…。
そして再び目を開くと、おもむろに何もない空間から何かを取り出してルクレツィアの手に握らせた。
ルクレツィアが手のひらを開いて見ると、そこには銀色の小さな鍵と、黒い指輪があった。
「これって…」
顔を上げたルクレツィアにユーリは言う。
「その鍵を使えばこの部屋から出られるよ。どこでもいいからその鍵を差し込んで…そしてヴィレンの元へ……悔しいからこれ以上は何も言わないけど」
拗ねた様子を見せるユーリ。ルクレツィアはこんなユーリの姿を初めて見た。彼はいつも、一歩引いたところで穏やかに笑ってばかりの人だったから…。
「ありがとうございます、ユーリ殿下」
ルクレツィアは鍵と指輪を大事そうに抱き締めると、ベッドから降りて立ち上がった。
彼女が言われた通りに宙に銀の鍵を差し込むと、空間が揺らいで扉が現れる。ドアノブを捻り扉を開くと…そこには黒い空間が広がっていた。
(イスラーク城にある氷の扉みたい…)
ルクレツィアはそんな事を思いながら、一歩、異空間の中へと足を踏み入れる。
「ねぇ、ルクレツィア嬢」
その時、ユーリが話しかけてきた。ルクレツィアはベッドの上に腰掛けてこちらを見つめる彼を振り返る。
「僕はあの時、泣いている10歳の貴女に何て言えば良かった?」
「それは…」
ルクレツィアは答えようとして、すぐに口を噤む。
「次、ユーリ殿下がまた恋をした時に、もう一度考えてみてください」
答える代わりに、ルクレツィアはとても可愛らしいキラキラと輝く笑顔をユーリに向けながら言った。
「その時に答えが分かると思いますよ!」
そのまま異空間の中へと姿を消すルクレツィアの後ろ姿を見送ったユーリは、思わず声を上げて笑ってしまった。
「最後の最後に、僕がずっと欲しかった笑顔をくれるなんて…貴女は眩しくてずるい人だね」
ユーリは最後に、もう誰もいなくなった扉へ別れの言葉を贈ったのだった。
「…じゃあね、僕の初恋…」




