58、はりぼて皇子の最後の分岐点
思い出されるのは、先ほどのヴィレンの顔。
苦しそうで、痛そうで、悲しそうな表情の彼は、ルクレツィアに別れの言葉を告げる時、とても傷付いた、泣きそうな顔をしていた。
(ヴィレン、貴方…あの時、私に別れを告げながらも『助けて』って思ってたでしょ?)
ルクレツィアにはヴィレンの事なら分かるのだ。彼は嘘が吐けない…全部、顔に出てしまう人だって知ってるから。
大切なヴィレンが助けを待っているのだ。自分はこんな所で閉じ込められている場合じゃない…。
「…でも私は、…私たちはお互いが一番の味方だと、約束したんです…」
ルクレツィアは一縷の望みを賭けて、ユーリへ懇願する表情で訴えた。
「お願いです…ユーリ殿下。私をヴィレンの元へ帰してください…!」
「……美しい関係だね、全く…」
ユーリは苛立たしそうに鼻で笑った後、席を立ちルクレツィアの元へとやって来た。
「それは叶えられないね。僕は貴女をヴィレンの元へ送り届けてやる気なんてない。もちろん、家族の元にだって…ね」
ルクレツィアはユーリの言葉に目を大きく開く。
「僕はルクレツィア嬢だけがいればいい。だったら貴女にも、僕だけだろ? それが公平じゃないか」
何が公平なのだと言い返したくなったが、ルクレツィアはグッと堪える。この話の通じないユーリに反抗しても、良い事なんてひとつもないだろうから。
それにルクレツィアにはヴィレンの指輪がある…何かあればきっと、あの防御魔法で守ってくれるはずだ。そう考えて、彼女はチラリと右手を見て…言葉を失った。
指輪が、無いのだ。ルクレツィアの右手に嵌められていた黒い指輪は、今どこに?
「…あぁ、指輪なら僕が預かっているよ。貴女の危機的状況に反応して防御魔法を張るみたいだけれど、僕が貴女の指から指輪を外す行為は危機的状況だとは見做されなかったみたいだね」
「そ…そんな…」
途端にルクレツィアの中に不安が広がっていく。これまで、いざとなれば自分の身は守られる保証があったから、まだ気持ちを強く持てていたけれど…もう、ユーリを説得するしかルクレツィアはこの部屋から出られない…。
絶望するルクレツィアの頬に、ユーリがそっと手を添えた。
「…やっと、貴女が僕のものになる…」
恍惚した表情でそう嬉しそうに微笑むユーリに、ルクレツィアは背筋にゾワッと悪寒を走らせる。
「……サ、…サラ王女が良くない事を企んでいるんです!」
こうなれば別の切り口からユーリを説得しようと、ルクレツィアは緊張した面持ちで口を開いた。
「ヴィレンを使って、この世界を壊すと…そう言っていました!」
するとユーリは少しだけ驚いた顔をした後、すぐに優しそうな…普段の彼らしい柔らかな笑顔を浮かべる。
「知ってるよ、僕はずっと彼女達を『監視』していたから」
「……え…?」
今度はルクレツィアが驚く番だった。
「知っていて彼女達を放置した。僕の目的のために」
ルクレツィアは目の前に立つユーリを心底軽蔑する。一国の主人になる者の考えだとは思えなかったからだ。
「ユーリ殿下! 皇太子として、貴方は今の自分の発言が恥ずかしくないのですか!?」
ルクレツィアは思わずカッとなり叫んでしまった。その時、ユーリの顔が…。
(…あ、…しまった…)
表情が抜け落ちたユーリに見下ろされたルクレツィアは、青褪めるのであった。
「あぁ、僕の愛しいルクレツィア…君はなんて高潔で美しい女性なんだ」
すぐにユーリはニコッと笑顔を浮かべる。ユーリが両手でルクレツィアの顔を挟むように掴んできて、腰を折るとそのまま顔を覗き込んでくる。
「や、やめて…」
ルクレツィアは怯えた表情で目の前のユーリを見る。彼の銀髪がかかる目元の奥には、闇が広がっていた。
「ルクレツィア、僕の本性を教えてあげる」
ユーリは目を見開きながら歪んだ笑みを浮かべて、そして突然、ルクレツィアの唇に自身のものを重ねてきたのだった。
「ん、うっ…!」
ルクレツィアは驚きながらも抵抗する。ユーリを拒否するように彼の胸をドンドンと握り拳で何度も叩くが、ビクともしない。
ルクレツィアの顔を掴むユーリの手に力が込められて、顔を背ける事も出来なかった。
次第にユーリの舌がルクレツィアの中に侵入してきた。ちゅる、と水音を奏でてルクレツィアの歯の間を割り入った。
ルクレツィアは涙を流し、せめてもの抵抗でユーリの舌を思い切り噛む。
「っ…」
すると、ユーリは痛みに顔を歪めてルクレツィアから顔を離した。口の中に広がる鉄の味…ユーリの口端から一筋の血が流れていく。
(舌を噛まれた…)
ユーリは忌々しげにルクレツィアを見下ろしながら口元の血を手で拭うと、治癒魔法で舌の傷を治療する。サラほどではないが、聖魔法に適正のあるユーリは、簡単な傷くらいなら治す事が出来た。
そんな彼の様子を強張った表情で見上げながら、ルクレツィアは浅い呼吸を何度も繰り返していた。
逃げ出したくて仕方がない。でも、どこに?
ルクレツィアの頭の中は真っ白で、うまく思考が纏まらない。するとユーリは、ルクレツィアを無理やり肩に担ぐように抱き上げる。
「や、やだ! 離して!!」
暴れるルクレツィアをユーリは問答無用で運び、そして部屋の奥にあったベッドの上へ投げ飛ばすように乱暴に下ろした。
「うぅっ!」
柔らかな毛布の上だったので痛みなどはないが、ユーリが何故自分をここに運んだのかなんて簡単に想像がつく。
「……ユーリ殿下…嘘でしょう…?」
ユーリが自身の衣服のボタンに指をかけながらベッドの上に上がってきた。
「嘘かどうかは、これから分かるよ…」
体勢を崩したまま、後ずさるルクレツィアにユーリはあっという間に追い付く。彼女に覆い被さるように四つん這いで、下にいるルクレツィアを見下ろしては笑った。
「はい、捕まえた」
楽しそうな声色でユーリはルクレツィアの二の腕を掴む。
「そうだ…僕の本性を教えてあげるんだったよね?」
ユーリはルクレツィアの体の上に自身の体重を乗せて、ルクレツィアを完全に閉じ込めてみせた。
「本当の僕は、優しくなんてないんだ」
ユーリは作りものの『優しい皇太子』の笑顔を浮かべながら言う。
「今も昔も、ただ人に優しく振る舞うと安心するだけ…皆に好かれる『皇太子』はそうじゃないといけないから。本当の僕は母のようにヒステリックで、父のように身勝手な人間なんだ。そんなどうしようもない本性を、『優しい皇太子』で隠してるだけなんだよ…」
そして『優しい皇太子』は、笑いながらも切迫した表情で続けるのだ。
「ちゃんとこれからも『自分』を隠して『皇太子』になるから…だから、たった一度の過ちくらい許してよ」
ルクレツィアは言葉を失ったままユーリを見上げていた。彼は確かに笑っているのに、ルクレツィアにはユーリが泣いているように見えたからだ。
「貴女が手に入れば、もうそれ以外は何も望まず大人しくしてるから…父と母が望むような『息子』になり、国民が望む『皇帝』となるよ。だからお願いだ…ヴィレンじゃなくて僕を選んで…」
ユーリはそう言って、ルクレツィアを抱き締める。先ほどの威圧的だった様子とは違って、縋るような彼にルクレツィアも悲しくなってくる。
「…ヴィレンがいたら貴女はきっと僕のものにはならないのだろう…でも、彼は魔王なんだ…あの化物二人と纏めて殺してやる」
ルクレツィアからはユーリの今の表情は見えないが、彼の声が震えている事が分かった。
ルクレツィアはそっと目を閉じて、突き放すのではなくユーリの背中を抱きしめ返してやった。まるで、怖くて震えている小さな子供みたいだ。
(ユーリ殿下…ずっとお辛かったのね…)
幼少期から『完璧な皇子』を求められ続ける人生は、どれだけ恐ろしく辛いものだっただろうか。
(…でも……)
ルクレツィアは目を開ける。
「…私に逃げたところで、貴方はきっと何も救われない」
ユーリがルクレツィアから少し離れて、彼女と目を合わせた。
「ユーリ殿下。今からでも正しい道を選びましょう」
そんな彼を真っ直ぐに見つめて、ルクレツィアは力強く言ったのだった。




