5、魔術師と竜の契約
夕暮れ時、開け放たれたベランダの窓から、ふよふよと黒い小さな竜が入ってきた。ヴィレンだった。
ルクレツィアの事が気掛かりだったのか、まだこの国をうろうろしていたらしい彼は、何となくルクレツィアに呼ばれた気がして気の向くままにクラウベルクの屋敷を訪れていたのだ。
「…おーい。なんだ、いないのか…」
ヴィレンが部屋の中に声を掛けるが、返事はない。ルクレツィアの姿がない事に残念な気持ちになるが、また日を改めて来てみようかと再びベランダの外へと向かう。
その時、ヴィレンは殺気に近いものを感じた。気付いた時にはもう遅く、部屋の物陰から勢いよく手が伸びてきたかと思えば、ヴィレンの首を鷲掴みにしたのだ。
ヴィレンは驚きのあまり、魔法を放とうとするが身体が言うことを聞かない…どうやら緊縛魔法を掛けられているようだ。油断していた上に不意を突かれたヴィレンはなす術なく敵に捕えられてしまったのだった。
(なんだ…!? 俺はまだ子どもでも竜族だぞ! それなのに魔法で押し負けるなんて…!?)
「捕まえた…」
ヴィレンを捕えた男が姿を現す。
それは背の高い男で肩につく程の長い黒髪に鋭い青紫の瞳。誰かに似ているような気もするが…それよりも。その男が持つ膨大な魔力量にヴィレンは震え上がった。
「お父様! ヴィレンに乱暴しないで!」
ヴィレンが死を覚悟していたら、その男の後ろからルクレツィアが現れた。
(ルクレツィア!?)
ヴィレンは驚きながらも縛られた身体で何とか捩って見せると、ルクレツィアが心配した顔でヴィレンへ両手を伸ばす。
愛娘に弱い恐怖の男ディートリヒは鷲掴みにしていたヴィレンの緊縛魔法を解いてルクレツィアに渡してやった。
「ヴィレン、大丈夫?」
「何だよあの恐ろしい男…」
ゲホ、と咳き込みながらヴィレンが問うと、ルクレツィアから「私のお父様なの」と返事が返ってきた。
「あれが?」
ヴィレンは目を丸くする。
「よくあのオッサンと喧嘩出来たな、ルーシー」
そしてニヤリと笑って、ルクレツィアに言った。
「喧嘩はしてないけど…でも、ヴィレンのおかげでお父様と向き合えたわ」
『ルーシー』、それはヴィレンとの友達の証。ルクレツィアが嬉しそうにニコリと笑う。そんな彼女の腕からヴィレンはピョンと飛び出して、そして人型になった。
「……やはり男だったのか…」
ディートリヒは人型になったヴィレンを見て少しだけ後悔する表情になっていた。
「ルーシーの親父さんよぉ、俺に何か用かよ?」
「…まずは口の利き方からだな」
ディートリヒが殺気のこもった目でヴィレンを見下ろすと、ヴィレンは再び竜の姿に戻りルクレツィアの腕の中にすっぽり収まる。避難したのだった。
「ふぅん、俺がいれば二人は一緒にいられるんだ」
ディートリヒとルクレツィアに話を聞いたヴィレンは勿体ぶった口調で言った。
「…勿論、その分の褒美を与えるつもりだ。竜は財宝を好むと聞く、お前の満足いく額を用意しよう」
もちろん宝石でだ、とディートリヒが言うとヴィレンは少し考えてから「いいぞ」と答えた。
「協力してもいい。ルーシーは俺の友達だしな」
「そうか。期限は分からない…出来ればルクレツィアの体質がこの世界に馴染むまでお願いしたい」
ディートリヒの言葉にヴィレンは頷く。
「期限は構わないぜ。俺と人間の寿命は違うからな…きっとルーシーにとっての一生は俺にとってそう長くない年月だし」
50年くらいなら国に帰らなくても家族は何も言わないだろう、と続くヴィレンの話を聞きながら、ルクレツィアは竜は人間の何倍もの年月を生きるという話を思い出した。
「……あのさ、」
ヴィレンは少し緊張しながらディートリヒに声を掛ける。
「褒美は、別のものがいい…」
「…望むものはなんだ?」
ヴィレンがチラリとルクレツィアを見た。
「…あー、と…後でオッサンに直接言うわ…」
少しヴィレンの顔が赤らんでいる気もするが、竜の姿だからよく分からないと思ったルクレツィアだった。
何はともあれ、これからルクレツィアは父ディートリヒ、そして初めて出来た友人ヴィレンと一緒に過ごせることになったのだ。こんな幸せなことってない。
「ルクレツィア、この屋敷を引き払って領地へ帰ろうか」
ディートリヒは今後の予定を考えながらルクレツィアに言った。領地に帰るとなれば色々と準備が必要だ。明日すぐに、というわけにはいかないが。
「これからはずっと俺と一緒に過ごそう」
ルクレツィアは嬉しくなり、明るい表情で大きく頷いた。
「帝都にいる間は毎日俺と一緒にいよう。これまでそうしてこれなかった分、たくさん遊ぼう」
まるで夢のような話だ。ルクレツィアは頭の中でディートリヒと過ごす楽しい時間を想像して、そして父の大きな手をギュッと握った。
「…でも、お父様は忙しいのでしょう? 私と遊んで大丈夫なのですか?」
ルクレツィアが知るディートリヒはいつも多忙だった。帝都に来る時なんて、皇帝に呼び出された時くらいで、それ以外は領地や各地で仕事をしていると聞いていた。
「あぁ、それはもう心配することはない。これからは仕事も減ってゆっくり過ごせるはずだ」
ディートリヒは何やら確信した表情でそう言って、ルクレツィアの頭を撫でる。
「だが、領地に帰る前に必ずやらねばならない仕事があるな…ルクレツィア、明日は俺と皇宮に行こうか」
皇宮…あまりいい思い出のないルクレツィアは返事をするのに口ごもったが、腕の中にいるヴィレンが「皇宮! 行ってみたい!」と明るい声で言っていたので、彼女はコクリと頷く。
(ヴィレンも一緒なら、大丈夫な気がする。もう一人じゃないものね)
ルクレツィアはギュッとヴィレンを抱きしめる。ヴィレンは驚いた様子でルクレツィアを振り返っていた。
「まずは一緒に夕食を食べよう」
ディートリヒはルクレツィアを抱きかかえて微笑みかけた。これからはもう、遠慮なく娘に触れていいんだと思うと、幸せな気持ちが込み上げてくる。
「夕飯かぁ…俺の分もあるよな?」
「もちろんよ!」
ルクレツィアは今、ディートリヒに抱きかかえられているので、彼女の腕の中に収まるヴィレンは不可抗力でディートリヒと目が合ってしまう。
「夜はまた一緒に寝ようね、朝までお喋りでもする?」
楽しみにしている様子のルクレツィア。ディートリヒから穏やかではない空気が流れてきた。
「『また』?」
ボソリと呟くディートリヒに、ヴィレンは必死に彼から目を逸らす。
「『また』とはどういうことだ?竜人のヴィレン?」
(ルーシーの親父、怖ぇー!)
眼光だけで竜一人を呪い殺せてしまいそうなほどの殺気だ。
「実は昨日、ヴィレンとベッドで…」
「ストップ! ルーシー、ちょい待て!」
この世で自分が怖いものは自身の母親くらいだと思っていたヴィレンは、他にも怖いものはあったのだと痛感する。
こうして、ずっとすれ違っていた父と娘は、一人の竜のおかげで手を取り合うことが出来たのだった。
***
「——それで、お前の望むものはなんだ?」
ディートリヒはルクレツィアの部屋からヴィレンを連れ出し、執務室へとやって来ていた。
「褒美のこと?」
「そうだ」
少年の姿をしたヴィレンがすこし恥ずかしそうにしている。ディートリヒは、なんだ…? と、目の前の竜のおかしな様子に少しだけ身構えた。
「オッサン、ちょっと屈んで」
「?」
ディートリヒはとりあえず、ヴィレンの言う通りに彼に目線を合わせるように屈んだ。
ちょいちょい、と更に手招きするヴィレン。
この部屋には今、ディートリヒとヴィレン二人だけしかいないというのに…と、思いながらもディートリヒはヴィレンに近付いてやる。
「俺の望みは———だ」
耳元で聞こえてきたヴィレンの望みに、ディートリヒは少し不愉快そうな顔をして姿勢を正した。
「…それは俺の一存では決められない。その時、ルクレツィアが良いといえば…………認めよう」
苦渋の選択を迫られた様子のディートリヒは、長い沈黙を挟んでやっと頷いた。ヴィレンは「やった!」とガッツポーズを取る。
「しかし、ルクレツィアが嫌だと言えば…その時は分かっているな?」
浮かれた様子のヴィレンに釘を刺すように、ディートリヒは鋭い目つきで言い聞かせるように言った。
「もちろん」
「お前が心から望むものには到底釣り合わないが、もう要らないという程の金銀財宝をくれてやるから…その時はそれで納得してくれ」
こうして、ディートリヒとヴィレンは晴れて契約を結んだのだった。
***