4、父の想いと後悔、そして娘の秘密
深夜、執務室にいたディートリヒはウイスキーの入ったグラスを傾けながら窓の外に広がる夜空を見上げていた。
「…カレン…」
呟いたのは、とある女性の名前。
「俺はなんて情けない父親なんだ…」
ディートリヒが持つグラスがパリンと割れて、中のウイスキーが溢れ出た。
思い出すだけで怒りが込み上がってくる。
ルクレツィアを寝かしつけた後、ニキルを呼びこれまでの報告書を元に詳しく尋ねてみると、とんでもない事実を知った。
ルクレツィアは周りの貴族から『ノーマン』と差別され、そしてそれはこの屋敷でも行われていたのだ。
(どんなに美味しいものを食べて、綺麗なドレスを着て過ごしていたとしても…ルクレツィアは満たされない、辛い毎日を過ごしていたはずだ)
この張りぼてのような報告書を信じ、安心していた過去の自分にも腹が立つ。
(子どもは敏感だ。大人のそういう雰囲気をすぐに察知するし、そしてその原因は自分だと考える…)
拳を握り締めると、割れたガラスの破片が食い込み血が滲んだ。
「俺は何のためにルクレツィアを帝都に残したと…」
普段酔わないディートリヒだったが、この日ばかりは少し酔いが回ったようだった。
昔、ディートリヒがルクレツィアを帝都に残すと決めた日から、娘の後ろ盾となってくれる家門を探していた。するとそこに手を挙げたのは皇族だった。
皇帝はルクレツィアと皇子の婚約を結ぶとまで言い、娘を守ってくれるという約束をディートリヒは信じていたのに。
ルクレツィアが苦しんでいる間、自分は皇帝と交わした約束のために身を粉にして帝国の防衛前線地域を飛び回り、敵国や魔獣との戦いに明け暮れていたのだ。
「…………」
ディートリヒの青紫色の目がサァ…と冷たいものになる。彼らにはどう落とし前を付けて貰おうか、そんなことを考える。
「…しかし、竜か…」
皇帝との約束の件は一旦置いておいて、今はルクレツィアが話してくれた竜について考えよう。
ディートリヒも知らなかったが、どうやら竜は他者の魔力を吸収出来るらしい。普通の生き物には出来ない芸当だ。魔力は人それぞれで違う性質だ、他に馴染むことはない。
「竜がこの世の最強種と言われる所以かな…?」
他者の魔力を奪い、自分のものとする力。しかし、竜の力を借りる事ができればディートリヒはこれからずっとルクレツィアの側にいる事が出来るのだ。
「…あの子を母親と同じ目に遭わせるわけにはいかない」
ディートリヒはとても悲しそうな顔で呟いたのだった。
ルクレツィアが朝目を覚ますと、部屋の中に数名の使用人たちがいたから驚いた。
何をしに来たんだと思ったが、どうやらルクレツィアの身支度の手伝いをしてくれるらしい。何故、自分の待遇がこんなにも変わったのか分からなかったが、ルクレツィアはとりあえず朝食を取りに食堂へと向かった。
「おはよう、ルクレツィア」
食堂ではすでにディートリヒが待っていたようで、ルクレツィアはドキドキしながら父に挨拶を返すと、遠慮して少し離れた席に着席した。
「…近くで食べてくれないのか?」
ディートリヒが悲しそうに笑った。ルクレツィアは高鳴ったままの胸で席を立ち、そしてディートリヒのすぐ近くの席へと座り直す。
ちょうど使用人たちが朝食を運び込んできた。
ディートリヒと同じ食卓を囲むなんて初めてで、ルクレツィアはあまりの嬉しさに涙が出そうになる。
「ルクレツィア。お前の体質について話しておこうと思う」
食事の途中でディートリヒが言った。
ルクレツィアが頷くと、彼は少し考える素振りを見せてから改めて口を開いた。
「そうなると…まず、お前の母親について話さねばならない」
ドキリとした。ルクレツィアは母親の事を全く覚えていなかったから。彼女が物心つくより前の幼い頃に亡くなったと聞いている。
「母親の名前はカレン・ウチミヤ」
あまり聞き慣れない名字だ。
「俺と結婚してからはカレン・クラウベルクとなったが…彼女はこの世界の人間ではない」
ルクレツィアも手を止めて、真剣な表情でディートリヒの話に耳を傾けた。
ディートリヒの話では、ルクレツィアの母カレンは異世界からこの世界へやって来た女性とのことだった。
もう何千年も前に行われていた魔王との戦争時代では、召喚儀式を用いて異世界の住人をこの世界に喚び、勇者や聖女として迎える風習があったらしい。
その戦争もはるか昔に終結しており、今では召喚儀式についての文献は殆ど残されておらず、あったとしても数行書き記されている程度。
ディートリヒが若い頃に研究のために訪れた遠い亡国跡地にその召喚儀式の陣が残っていたらしい。試しにやってみたら、本当に異世界と繋がってしまい召喚されたのがカレンだったと言う。
「すごく責任を感じたよ。彼女にも向こうの世界に家族がいただろうから…ただ、俺は彼女に一目惚れだったから、この世界に残ると決断してくれた時は嬉しかった」
初めて聞く父と母の出会いの話に、ルクレツィアは目を輝かせながら聞いていた。そんなルクレツィアを愛おしそうに見つめて、ディートリヒはその小さな頭を撫でる。
魔法が存在しない世界で生まれたカレンはノーマンで、全くの魔法の適正が無かった。彼女が異世界人だということを帝国には伏せたまま二人は結婚し、北の領地で仲睦まじく暮らしていた。
幸せは重なるものなのか、程なくしてカレンのお腹に生命が宿りルクレツィアの命を授かったのだ。
妊娠が分かったその時からカレンの身体に異変が起こり始め、ノーマンだったはずのカレンが何故か魔力を保持出来るようになった。
ディートリヒは何故、太古の人々がわざわざ異世界から勇者を迎え入れていたのかその理由が分かった。
異世界人は変質するのだ。それは未知なる大きな可能性を秘めており、この世界の人間の能力をはるかに上回り成長するもの。だからこそ、聖剣などの神具を使い異世界人を安全にこの世界に馴染ませた。
しかしカレンには魔力を発散させるための神具がない。何千年も前の、既に廃れてしまった文明をどうやって掘り起こせば良いのかディートリヒには見当も付かなかった。
ディートリヒが必死になって解決策を探している間にも魔力は溜まり続けカレンの身体を蝕み、そしてやがて死に至らしめたのだった。
「その体質を受け継ぎ、お前が生まれた」
ディートリヒは張り裂けそうな胸の痛みに耐えながら続ける。
「お前の母が異世界人故の体質なんだ…」
ディートリヒはずっと後悔していた。あの日、あの時、召喚儀式陣を試さなければ良かった。
この世界に召喚されなければ、カレンはもっと長生き出来た筈…と。
それでも死に際にカレンが残した言葉を信じたい。
『ディー、貴方に出会えて幸せだった』という言葉を。だからこそディートリヒは、カレンが命をかけて生んでくれたルクレツィアを今後何が起きようとも愛し続けるだろう。
自分の命に代えても守る覚悟がある。
「ルクレツィア、お前もカレンと同じ体質ならば異世界人特有の『変質性』も備わっている筈なんだ」
ディートリヒは思案しながら言葉を続けた。
「俺の血も入っているから、本来の異世界人と同様…とは言えないが、いつか必ずこの世界に馴染み魔法が使える日が来るはず…」
それが何年先かは分からない。十年先かもしれないしそれ以上かもしれない。
けれど、ノーマンという劣等感を抱いていたルクレツィアは、自分もいつかは魔法が使えるようになるのだと知り、嬉しくて堪らなかった。明るい表情で笑顔を浮かべていた。
ルクレツィアがこの世界に馴染むまで、ディートリヒは娘に近付くつもりはなかった。顔を見てしまえばきっと、たまらなく触れて抱き締めてやりたくなるだろうから。
そんな事をすればルクレツィアはカレンと同じ結末を迎える…だったら、娘と自分の時間を犠牲にしてでもルクレツィアを守るための選択をするとディートリヒは自分自身に誓っていたのだ。
(結果的に俺のそういった態度がルクレツィアを傷付け、周りの者を勘違いさせてしまった…)
ずっと魔術の研究ばかりしていたディートリヒは、人世に疎く鈍感なようだ。自分の新たな欠点を今更ながら自覚するディートリヒだった。
「…竜だ、ルクレツィア」
今は昨日出会ったという竜のおかげでルクレツィアと触れ合えるが、それも永遠ではない。また魔力が溜まってしまえば、ルクレツィアとディートリヒは一緒に居られないのだ。
「昨日出会った竜を、どうにかして呼び戻せないだろうか?」
「出来るか分かりませんが…やってみます!」
ルクレツィアは根拠のない自信からそう力強く言った。一人じゃないのだ、今はディートリヒが側にいてくれる。
「お父様と一緒なら、きっと大丈夫な気がするんです」
「ルクレツィア…」
ディートリヒは目頭が熱くなるのを感じながら、ルクレツィアの小さな肩を抱き締めたのだった。