36、くしゅんっ
「毛先が少し伸びてきているので、揃えて差し上げたいのですが…よろしいですか?」
イスラークの街の中央通りにある『JB』という大きな洋裁店にて、美容免許を持っている若い女性のデザイナーがルクレツィアの紫に輝く綺麗な黒髪を鋏で整えようとしていた。
「うん、ありがとう」
ふっくらとしていた頬はシャープに、短かった手足はスラリと長く、愛らしさの中にも少し大人の色香漂う笑顔を浮かべてルクレツィアはお礼を言った。
そんな彼女にデザイナーはうっとりとした顔をしている。ルクレツィアはそのまま、部屋の窓際で自分を待っている青年に声を掛けた。
「ヴィレンも整えて貰う?」
髪を。と、続けるルクレツィアに、6年前とは見違えるほど背が伸びて大人びたヴィレンが「いや、いい」とすっかり声変わり期の過ぎた低い声で答える。
ヴィレンの短かった黒髪は、今では長く肩を過ぎたところまで垂れていた。柔らかくて触り心地の良い艶のある綺麗な黒髪なので、ハーフアップや三つ編みなどたまにルクレツィアの玩具になる。
「ふぅん…そういえば、どうして髪を伸ばしてるの? 似合っているけど」
デザイナーが髪避け用のケープを外してくれたので、席から立ち上がったルクレツィアはヴィレンの元へと近寄って行った。
ヴィレンがルクレツィアに目を向ける。窓から差し込む太陽光が彼の姿を神々しく照らしていた。
(元々綺麗な顔立ちだったけれど、予想を裏切らない…いや、予想以上に美しく育ったなぁ…)
飽きるほど毎日眺め続けているというのに、ルクレツィアはふとした瞬間についヴィレンの美貌に見入ってしまうのだ。
「…知りたい?」
ヴィレンの質問にルクレツィアが頷くと、彼は色気たっぷりに美しく笑った。
「ルーシーの理想の男がディートリヒって言うからさ…俺も髪を伸ばそうと思って」
ルクレツィアの頬がほんのり赤く染まる。
自分と同じ紫色の瞳が細められていた。形の良い薄い唇は柔らかく弧を描き、その中性的で上品な顔立ちの中にある二つ並んだ左目下の黒子が相変わらずセクシーだ。
(この笑顔で恋に落ちる淑女が何人いることやら…)
現にヴィレンは…この六年間で帝国に住む貴族令嬢たちを虜にしていた。
「ヴィレンたら、大きく育ったね〜」
照れ隠しにルクレツィアが揶揄うように言うと、ヴィレンは「当たり前だろ」と、自信満々な表情で笑顔を浮かべる。
「今や俺は、グリムよりも背が高いんだぜ!」
ヴィレン曰く、現在身長が180センチあるらしくグリムよりも2センチ高いとのこと。
ルクレツィアから見れば、二人とも背は高いと思うし、そんなに大差は感じない。しかし、それを言ってしまっては何かとグリムに張り合おうとするヴィレンのプライドを傷付けるのだろうと、黙っている事にした。
(こういう子供っぽいところを見ると、ヴィレンは相変わらずヴィレンなんだよなぁ)
ルクレツィアとヴィレンがイスラークに来て6年の月日が経っていた。その間に二人とも少年少女から青年へと成長し、大人になる途中経過を辿っている。
今やマルドゥセル魔導帝国では二人の姿を知らない者はいないと言われるほど、ルクレツィアとヴィレンは有名人であった。それもこれも、あの写真機が原因だ。
スペンサー侯爵家を筆頭に開発改良された『写真機』は今では帝国中に普及している。
その流行の先駆けとして、ジェイの作品ドレスを着たルクレツィアの写真を配布したら…初めはイスラーク、次に北の領地、気付けば王都までジェイのドレスは人の目に触れて、大ヒットを記録した。
始めこそ、ジェイをノーマンだと侮り大きな洋裁店が彼の小さな店を取り込もうとしていたが、出資者にスペンサーだけでなくクラウベルクも居ると分かると、すぐに手を引いた。
帝国では初めて『魔力なし』で成功したジェイの存在により、少しずつではあるが帝国民達のノーマンに対しての意識は変わってきている。
もう誰も、ジェイを『無能なノーマン』とは呼ばなくなっていた。彼のデザイナーとしての才能が抜きん出ていたからこその結果ではあるが、帝国で暮らす他のノーマン達に夢と希望を与えたのは間違いない。
今ではルクレツィアだけでなくヴィレンもモデル採用しており、子供服や女性服だけでなく紳士服も扱う大きな洋裁店へと大躍進を遂げていた。
頑なに、ノーマンと馬鹿にされていたルクレツィアを認めたくない者も勿論いるが、元々目を惹く美貌の持ち主だった彼女の成長と共に磨きがかかった圧倒的な美しさを前に、憧れずにはいられない帝国民が殆どだった。
皆口には出さないが、結局、人というものは綺麗なものが好きなのである。
『JB』の新作ドレスの撮影が終わり、洋裁店にある個室でルクレツィアがヴィレンと共にグリムの迎えを待っている間に事件は起こった。
「何だか…今日はいつもより冷え込むね」
ルクレツィアが自身の二の腕を摩りながらヴィレンに言った。「そうか?」と聞き返すヴィレンだったが、すぐに自分が羽織っていたジャケットを脱いで、ルクレツィアの肩に優しく掛けてやる。
我儘でマイペースだったヴィレンも、女性を気遣える紳士に成長したのだ。
「ありがとう」
ルクレツィアはニコリと笑いかけて、ヴィレンの温もりが残るジャケットに包まれながら温かな気持ちになった。
「春と言っても、イスラークの春は冷えますからね。温かな紅茶をお持ちしますね」
野暮ったい格好だったジェイは、すっかりお洒落な店長へと成長していた。写真機を大事そうに抱えたまま、ジェイがルクレツィアに言う。
「うん、お願い」
ルクレツィアが嬉しそうに頷くと、程なくして洋裁店に勤めているメイドがティーワゴンを押して部屋の中に現れた。
ルクレツィアとヴィレンの前で湯気の立つ温かな紅茶を注いでいく。
「これ、砂糖たくさん入れたら美味いんだよな」
と、ルクレツィアの隣で嬉しそうに角砂糖を何個もティーカップの中へ運ぶヴィレン。
どうやら鉄仮面先生の厳しさを以ってしても、中身まではヴィレンを立派な紳士に矯正する事は出来なかったらしい。
しかし、身嗜みやマナー、姿勢、ダンス、勉強といった外側の部分は完璧な貴公子に擬態することは成功したヴィレンであった。
どこからどう見ても高貴な貴公子然とした優雅な仕草で紅茶を飲むヴィレンの隣では、ルクレツィアがティーカップに手を伸ばしたまま固まっていた。
「どうした、ルーシー?」
すぐに彼女の異変に気付いたヴィレンが尋ねる。ルクレツィアは少し鼻をひくひくさせながら、何とも言えない表情を浮かべていた。
(何だか今日は一段と鳥肌が立つ…。鼻もムズムズするし…もしかして風邪でも引いたのかな?)
——その時。
「くしゅんっ」
我慢が出来ず、小さなくしゃみをしてしまったルクレツィア。
その瞬間、ルクレツィアの口から小さな氷の欠片が幾つか転がり出てきた。
「………え?」
今自分の身に何が起こったのか…ルクレツィアが理解出来ないでいると、その様子を見ていたヴィレンとジェイが目を丸くしていた。
「ルーシー…今、お前…」
「ヴィレン、何だか私の体が変なの…」
と、抑えられずに再びくしゃみをするルクレツィア。またしても彼女の口から氷の粒が落ちてきて、今度は霜まで降りていた。
「ルクレツィア様! ティーカップを見てください!」
何かに気付いたジェイが声を上げる。ルクレツィアとヴィレンは言われた通りに、今彼女が持つティーカップの中を覗き込んだ。
そこには、温かな淹れたての紅茶ではなく、冷えて凍った紅茶があった。
ルクレツィアは目を丸くしてヴィレンを見た。彼も驚いたような顔をしていたが、すぐに喜色を滲ませた明るい笑顔に変化する。
「ルーシー! やったな!」
ヴィレンが喜びのあまり、ルクレツィアの細い体を無遠慮に抱きしめた。
「これは魔法だよ!」
ヴィレンの言葉に、ルクレツィアの丸い目には涙がジワリと浮かび上がる。
「ルーシーが氷魔法を使ったんだ!」
見れば、ルクレツィアよりもジェイが大泣きして喜んでいた。ヴィレンは興奮が収まらないのか、ソファーから立ち上がると、ルクレツィアの両脇に手を差し込み軽々と抱き上げた。
「きゃ!」
驚くルクレツィアの下でヴィレンが自分の事のように喜びながら笑っている。
「魔術師になりたいっていうルーシーの夢、これで叶うな!」
ヴィレンにそう言われると、ルクレツィアも段々と実感が湧き…。
「ヴィレン!」
「あぶなっ、落ちるぞ!」
ルクレツィアが急にヴィレンの首元に腕を巻き付けるように抱き付いてきたので、彼は焦った表情を浮かべながらも彼女を落とさないように背に腕を回してしっかり抱き締める。
「お父様に報告しなくちゃ!」
「だな。ディートリヒのやつ、泣いて喜ぶんじゃないか?」
ルクレツィア・クラウベルク。16歳の誕生日を来月に控えたある日、彼女の魔法の才がついに開花したのであった。




