3、父と娘
ヴィレンが去り、ルクレツィアは寂しく思ったがまた会える日を楽しみにしていようと心の中に大切にしまった。
気付けば夕食の時間はすっかり過ぎていて、使用人の誰も声を掛けてくれなかったことにルクレツィアは現実に戻された気分でため息をついた。
そのまま寝ようかと思ったが、どうやらそれはルクレツィアのお腹が許してくれないらしい。
ルクレツィアが部屋から出て食堂へ向かっていると、すれ違った使用人が慌てた顔をしていた。
(…何かしら?)
ルクレツィアは居心地の悪さを感じながらも、食事を済ませてさっさと自室に戻ろうと考える。今夜は秘密の友人ヴィレンとの楽しいひと時に浸かりながら眠りたいと思ったからだ。
ルクレツィアが食堂の扉を開こうとすると、屋敷の執事長が慌ててやって来た。
「お嬢様!」
「?」
普段はルクレツィアの存在を無視するくせに、何故話しかけてきたのかと訝しげに執事長を見上げる。
「今日はもう遅いですから、お食事はお部屋にお持ちします」
遅いと言っても、少し遅れた程度の時刻だ。何故、執事長はそんな事を言ってくるのかルクレツィアには分からなかった。
「…もうここまで来たのだから、ここで食べるわ」
「いけません!」
扉を開こうと力を入れると、執事長に怒鳴られる。驚いたルクレツィアは執事長を見上げて、そしてキッと睨み付けた。
「ここは私の家よ! どこで食事を取ろうが、執事に指示される筋合いなんてない!」
そう叫び、ルクレツィアは怒りに任せて扉を開く。すると、中には既に一人の人物が食事を取っているところだった。
青褪める執事長の隣でルクレツィアは目を丸くする。自分の目が信じられなくて、固まっていた。
その人物はルクレツィアの父、ディートリヒ・ヴィル・クラウベルクだったのだ。
「…お父様…?」
ルクレツィアがやっとの思いで言葉を絞り出すと、こちらに冷たい目を向けるディートリヒが言った。
「ルクレツィアか…久しいな」
ちょうど食事を終えていた彼は優雅にナイフとフォークを置いて、席を立つ。そして今来たばかりのルクレツィアの横を通り過ぎて食堂から立ち去って行った。
前回顔を合わせてから約三年ぶりの再会だった。なのに、元気だったかの一言もなく、ディートリヒは立ち去ってしまった。
ルクレツィアはショックでその場に立ち尽くし、下を向く。また涙が出てきた。
(ヴィレン、やっぱり我儘なんて無理だよ…)
ポロポロと静かに涙を流すルクレツィアの隣で、執事長がうんざりした声で呟くように言った。
「だから部屋に戻れと言ったのに…」
ルクレツィアはギュッと小さな拳を握り締めた。
「…っお父様!」
ルクレツィアは勇気を振り絞って、ディートリヒの後を追いかけて走った。
いやだ、いやだ、こんな場所はもう…一人でいたくない! その気持ちが心の中で溢れて、ルクレツィアの背を押してくれたのだ。
もしかしたらディートリヒに拒否されるかもしれない。それでも、何も聞かずにただ不安がって一人で耐えるのは、もう限界だと思った。
「お父様、待ってくださいっ…」
ルクレツィアがやっとの思いで追い付いて叫ぶと、ディートリヒは目を丸くして振り返る。
「ルクレツィア…?」
彼はとても驚いているようで、少し戸惑ってもいた。
「お父様…今日はこちらにいらしてたんですね」
「あぁ、先週に連絡を入れていたはずだが。今日は皇帝に呼ばれていたものでな…」
ディートリヒの返事を聞き、執事から何も聞かされていないことにルクレツィアの胸が痛む。
「…今日、ユーリ殿下が開いたお茶会があったのです…お父様も皇宮にいらしたなら、少し顔を出して下されば良かったのに…」
ルクレツィアは震える唇で、責めたようにならないように必死に笑顔を作りながら言った。
「…お茶会…?」
ディートリヒが眉を顰める。
「そのような話は聞いていなかった。悪かったな」
ディートリヒの淡白な話し方。ルクレツィアはお茶会だけでなく、これまで自分がノーマンだと嘲り笑われてきた事を思い出していた。
「…お父様、私も一緒に領地へ帰ったら駄目ですか?」
「…なに?」
ディートリヒの顔付きが変わる。これ以上言えば嫌われるかもしれない…でも、ルクレツィアはもう自分自身を止めることは出来なかった。
「私はお父様と一緒に暮らしたいです!」
ディートリヒは少しの間、口を閉じ沈黙した。そして、「ルクレツィア。お前は帝都で暮らすんだ」と、静かに言った。
ルクレツィアは絶望を感じ、ただ泣くことしか出来なかった。ディートリヒはそんな彼女に背を向けて、再び歩き始める。
(…行ってしまう…!)
ルクレツィアはそう思うと、無意識に走り出しディートリヒの腰に抱き付いたのだった。
「ルクレツィア!?」
ディートリヒが驚いて大きな声をあげる。
「早く離れなさい!」
「私がノーマンだからですか!?」
ルクレツィアが泣き叫ぶと、ディートリヒの手が止まる。
「お父様は私がノーマンだからお嫌いなのですか?」
ルクレツィアは勢いに任せて言い募った。
「でも私、魔力がある事が分かったんです。ノーマンじゃなかったんです! 練習すればきっと、魔法が使えるようになるはずですから!」
もう必死だった。父親の腰に抱き付いて泣き叫ぶことしか出来ないけれど、ルクレツィアは自分の価値を父親に示そうと必死だったのだ。
「だから私も連れて行って下さい!」
「…ルクレツィア…」
「私を見捨てないでぇ…!」
ルクレツィアがそこまで叫ぶと、ディートリヒは膝を付いてルクレツィアの小さな身体を強く抱き締めた。
「嫌いなんかじゃ…俺がお前を見捨てるわけがないだろう!」
ディートリヒの嗅ぎ慣れない匂いがルクレツィアの鼻を掠める。ルクレツィアは呼吸をするのも忘れて目を丸くしていた。
初めて感じた父の温もりはとても温かく、ルクレツィアは不思議な感覚だった。
ディートリヒは娘が何故このように泣き喚いて縋ってくるのか理解出来なかった。毎週届くこの屋敷の執事からの報告書を見ても、ルクレツィアは何の問題もなく過ごしているように思う。
ちゃんと栄養バランスを考えられた食事を取り、ルクレツィアに相応しい最高級のドレスを身に纏っている。
久しぶりに見たルクレツィアは、報告書通りに健康的で健やかに育っているではないか。自分の娘ながら美しく成長していると感慨深いものを感じていた程なのに。
ふと、ディートリヒはルクレツィアの口から出た『ノーマン』という単語に引っ掛かりを覚えた。
「…ニキル!!」
ディートリヒはルクレツィアを抱きかかえてから、大声で叫ぶ。すると、先程の執事長が慌てたようにディートリヒの元へとやって来た。
ルクレツィアを抱くディートリヒの姿を見て、執事長ニキルはギョッとした顔をする。
「お前に聞きたいことが沢山ある。これまでの報告書を持って、今夜俺の執務室に来るように」
「は、はい…」
ニキルは焦った様子で頭を下げながら、チラリとルクレツィアを見た。
「分かったら行け」
「は、はい!」
ニキルが立ち去る様子を見送ってから、まだ涙を流しているルクレツィアを床に下ろしてディートリヒが指で涙を拭いながら言った。
「ルクレツィア、お前に聞きたいことがある」
ルクレツィアは顔を上げて父親を見た。
「お前の中の魔力が、殆ど空っぽになっている。これはどういう事だ?」
この言葉から、ディートリヒはルクレツィアが魔力なしでないことを知っていたのだとルクレツィアは気付いた。
どうしようか、ヴィレンのことを言おうかとルクレツィアが迷っていると、ディートリヒが「あのな」と、娘の肩を掴む。
「俺は好き好んでお前を領地に連れて行かなかったわけではないんだ。お前の体質が原因で、連れて行けないだけなんだよ…」
ルクレツィアは濡れた目を大きく開いてディートリヒを見上げる。
「お前はノーマンじゃない、魔力を保持出来る。が、しかし魔法は使えない体質なんだ」
ディートリヒはルクレツィアに言い聞かせるように説明した。魔法が使えないと、体の中に溜まった魔力を発散出来ないままになる。
コップに注がれた水が満杯になってそれ以上注げないように、人の体も保持できる魔力量は人それぞれで決まっていて、溢れた分の魔力は次第にその人の身体を蝕んで高熱が出たりと命に関わる危険性があるのだ。
「お前が赤子の時に俺が抱いたら、俺の大きすぎる魔力に当てられその症状に陥りかけたんだ。だから出来るだけ俺から…離れて暮らせるようお前のために帝都に屋敷を買った」
ルクレツィアは信じられない気持ちだった。自分は父親に、見捨てられてなどいなかったのだ…!
「だから、教えてくれ。ルクレツィア」
ディートリヒの声に力がこもる。
「お前の魔力を発散させた方法を」