2、竜との約束
「ヴィレン、だ」
「…はい?」
「俺の名前」
黒竜…いや、ヴィレンは無愛想な表情でルクレツィアに名乗った。艶やかな黒髪に黒い瞳、左目の下に黒子が二つ並んでいるのが特徴的だ。彼は顔立ちの整ったとても綺麗な少年だった。
「あ…私はルクレツィアよ」
ルクレツィアは戸惑いながら自身も名乗ると、ヴィレンは「そうか」と短く返す。
「手当てしてくれるんだろ? 中に入るぞ」
「………」
何故急に手当てを受ける気になったのか分からないが、ヴィレンは偉そうな態度でそう言ってルクレツィアの自室の中へと入っていってしまった。
ポカンと呆けるルクレツィアだったが、ハッと我に返ると慌ててヴィレンの後を追い部屋に入ったのだった。
ベランダから部屋に入るとヴィレンがすぐ目の前に立っていた。どうしたのだろう、と彼の様子を伺うと、ヴィレンは物珍しそうな顔で部屋の中を見渡している。
(人間の部屋が珍しいからなのでしょうけど…部屋の中をそうまじまじと見られるのも恥ずかしいわね…)
ルクレツィアは恥ずかしい気持ちからコホンとひとつ咳払いしてヴィレンに声を掛けた。
「その椅子に座って」
ルクレツィアは椅子を指差しながら指示して、桶とタオルを取りに自室の備え付けのシャワールームへと向かった。
水の入った桶を抱えて部屋に戻ると、ヴィレンはちゃんと指示された椅子に座っていた。素直だ。
次に引き出しの中から消毒液やガーゼを取り出す。小さな傷を処置してくれる人はこの屋敷に居ないので、ルクレツィアは今まで自分で怪我の処置をしてきた。だから手当てはお手のもの。
水に濡らしたタオルでヴィレンの傷を刺激しないように優しく血を拭った。次に消毒液を湿らせたガーゼを傷口に押し当てると、沁みるのかヴィレンが眉頭を寄せていた。
「手当てといっても簡単なことしか出来ないけど…」
ヴィレンの傷は血が出ている割には大した傷では無かったみたいでルクレツィアは安堵する。
最後に清潔なガーゼで傷を塞いでからルクレツィアが満足そうに「よし」と呟くと、ヴィレンはまたもや珍しそうな顔でガーゼを眺めていた。
「…他にもう傷はない?」
ルクレツィアが尋ねると「ない」と短く答えるヴィレン。
ルクレツィアは良かったと思う反面、少しだけ寂しい気持ちになる。傷の手当てが終われば、ヴィレンはどこかへ行ってしまうだろうから…。
自分をノーマンだと蔑む目を向けないでいてくれるヴィレンに、ルクレツィアは少しだけ救われていた。まるで自分にも価値があるように思えたのだ。
ヴィレンは部屋を出ようと立ち上がり、ベランダのドアに手を掛ける。
「あ……さようなら」
ルクレツィアは少しだけ悲しく思いながらも、笑顔を作ってヴィレンの後ろ姿に手を振ると彼が振り返った。
「…やっぱり、疲れたし少し休んでから行く」
そう言ってヴィレンはルクレツィアのベッドに遠慮なく大の字で寝転ぶ。
私のベッド…と思いながらも、ルクレツィアは嬉しく思った。
「お前も寝るなら隣で寝れば?」
ずっと立ったままのルクレツィアにヴィレンが言うと、ルクレツィアはポカンと呆気に取られた顔をした後に表情を引き締めてベッドの上に上がってきた。
「私のベッドなんですけど」
「広いんだし、別にいいだろ」
悪びれもないヴィレンの態度にルクレツィアは呆れてため息をつき、そして彼の隣に寝転ぶ。
なんとなく、二人は天井を見上げながらお互いの身の上話しをポツリポツリと語って聞かせた。
ヴィレンは竜の国、魔王国からやって来たらしく、父親と大喧嘩をしたのでそのまま家出したらしい。今は気ままに旅をしているのだとか。
怪我は父親との喧嘩で出来たものらしく、話を聞いていたルクレツィアはどれだけ激しい喧嘩だったんだ…と、竜の凄さを実感した。
ルクレツィアも少しだけ自分のことを話した。
「ふぅん、ノーマンね…」
ヴィレンは興味なさそうに呟く。
「人間って差別が好きだよなぁ」
「…そうなのかな…?」
ルクレツィアは相槌を打ちながら考える。そもそも、人を貴族と平民に分けていることも差別の一種なのだろう。
「…そうかも…」
そう続けて、ルクレツィアは悲しい気持ちになる。貴族のくせに自分は、魔法を使えない…。
暫く沈黙が続き、ルクレツィアが何となくそわそわとしていたらヴィレンが突然上体を起こした。
「……お前、この国が嫌なら俺と一緒に来る?」
そして、ルクレツィアを見下ろしながら言う。
ルクレツィアは驚いて、彼女も上体を起こした。
「もう少し他の国を見て回ったら、自分の国に帰るからさ。ルクレツィアも魔王国に来れば?」
ノーマンだろうがなんだろうが魔王国では差別しない、とヴィレンは続けた。
突拍子のない提案にルクレツィアは何も答えられないでいた。
「…まぁ…すぐには決められないか。国を捨てるようなもんだし」
ヴィレンの言葉にルクレツィアは顔を上げる。
「私、行かないわ!」
一瞬でも自分が国を捨ててしまおうかと考えていた事に恐ろしく思った。
自分は誇り高い父の娘だ、クラウベルクの娘だ。それなのに、国を捨てようだなんて…。
ルクレツィアが俯くと、涙が太ももの上に落ちる。
「…あー…」
ヴィレンが困ったように声をあげた。
「悪かったよ…」
「…ヴィレンのせいじゃないの」
泣き虫で弱い自分が嫌いだ。ルクレツィアは涙を拭ってヴィレンを見上げる。
「またどこかで会える?」
ルクレツィアが尋ねると、ヴィレンは「うぅん…」と難しい顔で考えている。
「…手、出して」
「?」
ヴィレンが手のひらを差し出してきたので、ルクレツィアは首を傾げながらもその手を握る。すると、二人が握手した手から光が漏れ出した。
ルクレツィアは驚きながら目の前のヴィレンを見て、さらに目を丸くする。
「ヴィレン! 目が…!」
ヴィレンの黒かった瞳が、まるでルクレツィアと同じ紫色の瞳に変色していたのだ。
「ルクレツィアの魔力を取り込んだからな」
お前と同じ色だ、と、ずいと顔を近付けてきて笑うヴィレン。ルクレツィアは耳を疑った。
「…私にも魔力があるの!?」
魔法が使えないノーマンなのに…と、ルクレツィアの声は思わず大きくなる。
「あぁ、あるぞ。お前の場合は…魔力なしというより、魔法が使えない原因が他にあると思う」
ヴィレンはそこまで言ってから、その原因までは俺には分からないけれど、と締め括る。
ルクレツィアは信じられない気持ちで自身の手のひらを見つめた。無いと思っていた魔力があるのだ、もしかすると…自分も父と同じように魔術師になれるのかもしれない、と微かな希望を持つ。
「取り込んだお前の魔力を辿って、俺から会いに行ってやるよ」
ヴィレンが照れながらそう言うので、ルクレツィアは嬉しくて笑った。
「じゃあな…俺、そろそろ行くわ」
「…またね」
再びベランダの方へと向かうヴィレンを見つめるルクレツィア。さっきとは違う、またねと声を掛ける。
「ヴィレン、私とお友達になってくれない?」
ルクレツィアは勇気を振り絞ってヴィレンに言った。ドキドキ、と緊張で心臓が高鳴っている。ヴィレンは少し目を丸くしてこちらを見た後、すぐに笑顔を浮かべた。
「…お前はさ、自分の気持ちを父親にちゃんと言ってみた方がいいと思う」
「え?」
急に違う話題を振られてルクレツィアは戸惑う。
「ここに一人で居ることが辛いなら、連れて行ってくれって言えば?」
「…そんな我儘は言えないわ…」
ただでさえ自分は役立たずなのに…そんな我儘を言って嫌われたくない。ルクレツィアも認めたくないが分かっているのだ、ディートリヒはきっと自分に興味がないと…。
「我儘くらい言うだろ、親子なら」
しかしヴィレンはルクレツィアの悩みを笑い飛ばし、ごく当然のように言ってのけた。
「俺なんてよく親父と喧嘩してるぞ」
そして得意げになってそう言うものだから、ルクレツィアも思わず笑ってしまった。
「父親に我儘を言え。そしたらお前と友達に…お前をルーシーと呼んでやる」
『ルーシー』、ルクレツィアの愛称だ。この世界に誰一人として、自分を愛称で呼んでくれる人なんていないのに。
「ヴィレン、ありがとう…!」
ルクレツィアが涙目で嬉しそうに笑うと、ヴィレンは頷いて、そして竜の身体になってベランダの向こうへと飛び立って行ったのだった。