第八十七話
一五二五年九月 越中城ヶ崎城
「フー、まだまだアチいな。」
僕の眼前で狩野屋伝兵衛がパタパタと扇子で自身を扇いでいた。
狩野屋伝兵衛は最近中年太りになってきたようだ。
商いでたまに京等へ行っている割には腹回りが立派になってきたようだ。
京で美味いメシでも食べて来たのか?
「伝兵衛は…少し運動不足では無いのか?」
「うーむ、長職様に言われたく…と言いたいところだが前よりはだいぶ逞しくなってきたみたいだな。」
「守山城に行くと総光にしごかれるんだよ。ここにいたらしなくても良いのだが、しごきについていけなくなるからな。」
「ほう、それなりに頑張っているのだな。」
「それなりに、な。」
僕は肩をすくめた。
剣や槍など武芸の稽古はしてはいるのだが残念ながら僕には才能が無いようだった。
「ところで畿内の情勢はどうだった?」
先程も触れたが越中での事業の関係で時折敦賀経由で越中と京を往復していた。
今日もその帰りで本城とした城ヶ崎城を訪問してきたわけだ。
「一先ずは…大きな混乱は無さそうだ。まぁきな臭くはなってきているがね。まずは管領・細川高国が剃髪して道永と号したな。これは史実通りであるが、本来家督を譲るはずだった嫡男の植国が死去してしまった。こっちは史実より少し早いな。」
史実では細川高国が出家し家督を嫡男の植国に譲るのだが、その植国は本年の十一月に死亡する。
僕達の歴史ではそれがひと月以上早い。
「あれそもそも管領様は家督を譲らなかったのか?」
「ああ、どうやら出家した頃には植国の体調が思わしくなかったようだ。」
そう言えば以前に細川高国と会談したときに嫡男・植国の体が強くないと言っていたな。
家督相続の準備はしたものの、断念したという事か。
「まぁそう言う事があると反高国派、つまり足利義維…この時代では義賢を奉じる連中が勢いづくかもしれないな。」
「…三好や波多野は動くのかな?」
史実であれば来年の一五二六年にまた新たな戦乱が始まるはずだ。
確か波多野などが細川高国に反抗したのがきっかけだったかな。
「それは分からんな。本来その中心に立つはずの細川晴元がここ越中にいるんだからな。」
そうなのだ。
細川晴元は長岡六郎と名乗り我が神保家の家臣となっている。
長岡六郎が始めた安養寺での事業もそれなりに成果を上げ始めていた。
「それでも阿波の細川氏もいるし畿内の畠山もまだ一定の力があるから注意するべきだな。」
「そりゃそうだ…。で、畿内から見て我等神保家は公方・管領方もしくはそれに近しい立場だと思われているぞ。」
「それは致し方のない事だが…」
我が神保家としては、と言うか室町幕府が存在している以上、形式上は公方・足利義晴の家臣だ。
だが現公方から越中守護職に任じられ、その後ろ盾である細川高国と会談もしているから、高国派閥と見られるのはある意味しょうがない事だ。
だが僕としては現段階で明確に管領方に与するつもりは無い。
「まぁ畿内の情勢は長職様も諜報活動を行っているのだろ?」
「それはどうなんだけど薬売りのネットワークはまだ機内では構築しきれていないからな。伝兵衛にはまだまだ期待しているよ。」
「あまり期待されても困るけどな。」
狩野屋伝兵衛が麦湯をグビっと飲み干した。
「話は変わるが長職様、新川郡の復興はどうなんだ?」
「ああ、椎名親子を中心に国人衆と共に頑張ってもらっているよ。農地・灌漑設備の復興と整備がかなり進んできたかな。来年に稲作を再開できればと考えている。」
「物資は足りているのか?」
「それは畠山義総の船も使って海路でも輸送しているから何とかなっている。」
「分かった。足りないものがあれば言ってくれ。」
「ああ、よろしく頼むよ。…しかし。」
僕はそこまで言って言葉に詰まってしまった。
「ん、どうしたんだ?」
「いや、いまだに長尾為景が死んだなんて信じられなくてな。」
「ああ、それは確かにな。」
「これで長尾景虎…、上杉謙信が生まれなくなるわけだし…」
前にも述べたが上杉謙信の生年は一五三〇年なのだ。
「上杉景勝…になるはずの人物は生まれるかもしれないが、その生母の仙洞院の生年がはっきりしないからどうなるかな。」
上杉景勝の生母の仙洞院の生年は一五二四年もしくは一五二八年のどちらかと言われており、もし後者であれば上杉景勝も生まれない事になってしまう。
歴史の改変については今更か? と言われてしまうかもしれないが、有名人が存在しなくなる可能性があると言うのは大きなことだ。
「それについては最近取次に任じた直江実綱を越後に送っているから、それとなく長尾定長に確認してくるつもりだ。」
「なるほどな。直江実綱を越後に送ったのはそれだけでは無いんだろ? ただ調べるだけなら薬売りで良いものな。越後はそれなりに薬売りが入り込んでいるはずだ。」
さすが、狩野屋伝兵衛は鋭い。
「ああ、人材の引抜も考えていてな。そこは繋がりが出来たら詳しく話すとするよ。」
「…しかし越後からそれをやるなんてな。越後守護の上杉は味方では無いのか?」
「上杉定実が当主である内は敵では無いが、味方でも無いと思っている。娘婿の長尾定長が跡目に就ければ話は別だけどな。とりあえず現状は上杉定実の家臣や揚北衆がターゲットだよ。」
僕は越後の地図を眺めながら伝兵衛の問いに答えた。
なおあの戦の後に長尾定長は越後守護代長尾家中の引き締めに動いたようだ。
速やかに家督相続を済ませたためあまり混乱なく家中を掌握したらしい。
とはいえ越後は独立色の強い揚北衆等の国人領主の力が強く、まだまだ纏まりそうには無い。
上杉定実が守護でいるうちに可能な範囲内でおこぼれを頂戴するとしよう。
状況整理回…となります。
前にも述べましたが揚北衆と言うのは越後北部に割拠した国人領主の事です。
彼等の力は強く、町時代から戦国時代中期における越後の政情不安の一因となったのでした。




