第六十六話
一五二三年五月 越中西部・大永の役
一五二三年五月、大谷兼芸からリークされた情報の通り、加賀一向一揆勢が我が国に侵攻してきた。
薬売りの物見によると、その軍勢は総勢二万三千程で、当初の見積より多い数での侵攻だ。
ここは越中蓮沼城。
越中・加賀国境(倶利伽羅峠)から一キロあまり離れた場所にあるこの城を、今回の戦での前線拠点とした。
ここより西には倶利伽羅峠近傍に源氏ヶ嶺城があったが、そこでの防衛行動はし辛いと判断し放棄した。
そこから東は徐々に平地が広がるのだが、この二カ月で空堀と柵を複数建設した。
要するに塹壕戦を行う構えだ。
新たに櫓を構えた蓮沼城からは倶利伽羅峠から続く街道は丸見えだ。
「敵の侵攻方向は如何様か!」
「敵の主攻撃軸は予想通り倶利伽羅峠と思われます。数は凡そ一万七千。間もなく国境を超える由!」
「内山越はどうか?」
「残りの六千程が回っている模様。」
この時代に越中・加賀国境と言えば北陸道が通る倶利伽羅峠がメインであり、北に天田峠もあるが今回はこちらに敵軍が向かった形跡はない。
「よし、倶利伽羅峠については引き続き監視を厳にせよ。敵の軍は塹壕線まで引き付けてよい。」
我が軍の主力である常備軍は一万二千を準備している。
それに国人衆の兵が三千だ。
今回の緒戦ではこちらから積極的な攻撃には出ない。
敵を塹壕や柵で足止めをし、櫓からの弓兵で射撃を行い時間を稼ぐ戦法だ。
また新しく準備した兵科である弓騎兵で奇襲を行って敵を削る。
弓騎兵は弓を装備し馬上から射撃を行う騎兵である。モンゴルなどの遊牧民族で有名な兵科であり、日本でも鎌倉時代においてはそれなりに主力を担っていた。
「職信、義総へ早馬でこの文を届けてくれ。可能ならば二千程の兵を借りたい。」
「は、羽咋郡のあたりですね。」
「その通りだ。畠山にそこに圧力を掛けていただければ、こちらが楽になる。」
「承知!」
狩野職信が小走りで軍議の間を出て行った。
「さて内山越の対策だが…」
「殿、こんな事を言うのはなんですが、安養寺衆は信用できるので…?」
「うむ、敵も一向一揆勢ゆえな…」
諸将の懸念も最もである。
僕は大谷兼芸を信用し同地の守備を任せた。
兼芸は軍議には出席せず、既に安養寺御坊から七千の兵を連れ出陣していた。
「ははは、兼芸に裏切られたら俺は終いよ。其方方面に向けての防御陣地の構築はしておらんからな。」
まあその時はその時で腹を決めるしかないのだ。
「さて、椎名康胤!」
「は、ここに…!」
椎名康胤が一歩前に出た。
「お前にはその、安養寺衆の援護を頼みたい。国人衆の兵から二千を率い出陣してくれ。必要な人選は任す。」
「某ら国人衆は防衛に此処の防衛に加わらなくてもよろしいので…?」
「そうではない。重要な役目として安養寺衆と共に内山越から来る一向一揆勢を打倒してほしいのだ。ここは俺達の軍でしばらくはもつ。内山越の一向一揆勢は油断しておるとは言え、兼芸ら安養寺衆だけでは辛かろう。」
「承知いたしました。では準備出来次第出立いたしまする。」
「うむ。お前のの親父殿は我が父も支えてくれた戦友だ。その嫡男たる働きに期待しているぞ。」
「は、必ずや!」
椎名康胤が一礼して退出していった。
さてこの戦は大谷兼芸ら安養寺衆と一蓮托生だな。
僕としては一向一揆との本格的な戦は初めての経験だ。
信仰心を利用して攻めてくる、所謂死兵の恐ろしさを体験した戦となったが、それは後で語るとしよう。
◇ ◇ ◇
大谷兼芸が率いる安養寺衆は越中・加賀国境(内山越)から越中国に少し入った場所、五郎丸川沿いの山あいに少し開けた場所へ布陣していた。
「ふむ、<本家>の軍は六千程こちらに向かっているのか。少し多いな。」
安養寺衆の本陣で大谷兼芸が少し上を向いた。
こちらの軍は七千、想定よりも敵が多くほぼ拮抗していた。
「だがやらねばなるまい。殿が儂の事を信用してくれたのだからな。」
大谷兼芸はおもむろに立ち上がると本陣を出て自ら率いる門徒達の前に立った。
「門徒達よ、諸君等の日々の信心に感謝している。我等の敵は我等と同じく御仏を信じる者達だ。そのような事態を不安に思う者もいるだろう。しかし!」
そして拳を振り上げた。
「我等が与する神保家は、我等に豊かな暮らしを与えてくれた。その上で我等が御仏を信仰する自由も与えてくれているのだ。だが西から来る門徒達はその暮らしを踏みにじる為に此処へ向かっている。その様な事は許されてはならない!我等は、我等の信仰心と共に、我等の大切な隣人達と共にこの地を守ろうでは無いか!」
その時側近の兵が大谷兼芸に耳打ちした。
神保家から二千の援軍が向かっている報せであった。
「おお、神保家の殿が我等に二千の援軍を送ってくれたそうだぞ! これに諸君等の信仰心を加えれば敵軍なぞ恐れぬに足らぬ!」
「「「「おおおおおおおお!!!」」」」
安養寺衆の門徒達が大きな声を上げた。
大谷兼芸の演説に安養寺衆の士気が上がったようだ。
八千 対 六千。
兵力は僅かに優勢であるが、どうなるかはまだ分からない。
敵が油断している内に少しでも優勢に持っていかなければ。
間もなく戦いの火ぶたが切って落とされようとしていた。
このあと戦争の描写になるわけですがとても難しい。
いろいろ考えて参ります。




