第百四十二話
一五三三年五月 越中氷見狩野屋屋敷
この日、僕は久方ぶりに越中氷見狩野屋屋敷を訪れていた。
一年ほど前に狩野屋伝兵衛が体調を崩したことは述べたと思うが一時期快復したと思っていたのだが、近頃では床に伏している日が多くなってきたのだ。
「おお…、長職様。来てくれたのか。」
その声は以前よりもだいぶ弱々しい。
「ああ、調子はどうだ?」
「ぼちぼち…と言いたいところだが、今日はどうも体に力が入らんよ。」
狩野屋伝兵衛の年齢は現代であればまだまだ老け込む年では無いのだが、この時代ではそういう訳にもいかない。
傍らには薬売り出身で狩野屋の跡継ぎとして養子となった”市”こと市兵衛徳広が控えていた。
養子となってからは狩野屋伝兵衛に付きっ切りで学んでいたと言う事だ。
市兵衛徳広は孤児であったのだが能力を見込まれ薬売りとなり我が神保家の諜報活動の傍らで狩野屋の一員となってからは更に実力を発揮してきた男だ。
「そうか。前にも言ったが、俺はまだお前に居なくなってもらっては困るんだがな。」
「ふふふ、いつまでも甘ちゃんでは駄目だぞ。長職様は俺が居なくては何も出来ないのか?」
「ぬかせ…!」
いつも通りの冗談のたたき合いではあるが、弱々しくなった狩野屋伝兵衛を見るとただの冗談と言えない感じだ。
「義父上。御屋形様をお招きした上でのお話とは如何なる事にございましょうか?」
そう、今日僕はは狩野屋伝兵衛に招かれてここを訪れていた。
その内容は文にて先に聞いているのだが。
「市兵衛。それについてはまず俺から話させてもらおうか。」
僕は市兵衛の方に体を向けた。
「御屋形様からにございますか。」
「うむ。今から話す事は市兵衛からしたら荒唐無稽に聞こえるかもしれない。だが市兵衛が狩野屋を継ぐと言う事は我が神保家においても中核をなす存在になると言う事だ。だからこそ知っておいて貰わねばならぬことがある。」
「そ、それはいったい…?」
市兵衛がゴクリと唾を飲み込んだように見えた。
「俺と伝兵衛は今より四百五十年以上先の世、…つまり未来から来た人間であると言う事だ。」
「は…!? 未来に御座いますか?」
驚くのは当然だ。
「正確に言えば俺と長職様は全く同じ時代からでは無く、長職様は俺よりも十年以上先から来たようだがな。市兵衛よ、信じらんか?」
狩野屋伝兵衛が口を挟んだ。
「し、信じる信じないと言うよりは、衝撃的過ぎて何も言えませぬ…。」
「まあ、それはそうであろうな。」
「しかしながら御屋形様や義父上の事の為さり様や、普段のお二人を見ていると納得できるような感じも致します。」
先程も言ったが市兵衛は優秀な男だ。
俺や伝兵衛が行ってきた施策の先進性、特異性を感じていたのかもしれない。
「この事を知っているのは他には畠山の義兄上だけだ。」
「…ご家中の皆様や朝倉様、上杉様にはお話になっていないのですね。」
「隠している訳では無いがね。」
他の武家に対して我が神保家が勝っている事は未来の知識から来る思考の柔軟性だと思っている。
自らの家臣に話していないのは別に他意がある訳では無いがある意味この時代の考え方と意見を戦わせるためでもある。結果自分の考えだけでは見えてこないこともあると思う訳だ。
畠山義総に関しては誰かに言いふらす人でも無いし、関係性の近さもあるからな。
「それで私にお話下さると言う事は?」
「市兵衛。お前には伝兵衛の様に俺に対して意見してくれることを期待している。商い、財政の面で大きな役割を担ってほしいのだ。それに必要な教育は伝兵衛から受けていると聞いているよ。」
「…は。確かに義父から様々な事を学びました。」
曰く、どこから聞いたのか分からないような話もあったようだ。
流石にそれが未来からの知識とまでは思わなかったそうだが、俺と伝兵衛の話で得心が行ったようだ。
「市兵衛よ、聞け。お前は狩野屋の主として、そこな長職様に何も遠慮はいらないからな。」
本当にこの男は僕に対して遠慮する事は無かったよ。
「伝兵衛の言う通りだ。伝兵衛は経済分野で多大な貢献をしてくれたし、俺に対して献策もしてくれた。まあちょっと無礼な物言いもあったけどな。」
「ふん、俺の方が人生の先輩なんだから、先達の指導は良く聞くものだぞ?」
「言ってくれるじゃないか。」
僕と狩野屋伝兵衛はゲラゲラと笑った。
戦友との時間は家族とのそれとは違った意味で心地よいものだ。
ふと横目で市兵衛を見ると、僕と伝兵衛に向かって軽く頭を下げている様だった。
この一週間後、同じ未来から戦友である狩野屋伝兵衛は天に向かって旅立っていったのだった。
狩野屋伝兵衛、享年四十三。
現代の感覚では早すぎる別れとなりました。
この後狩野屋は代替わりとなり、市兵衛が当主と言う事になります。




