第百十三話
一五二八年六月 越前大野郡某所
ここは朝倉宗家軍と敦賀朝倉軍の主戦場から東にある大野郡。
伝令の報告を受けている侍が大きくため息をついていた。
「なるほど…。大叔父上が今庄周辺まで進出されたのか。」
この男は朝倉家一門、大野郡司を務める朝倉孫八郎(次郎左衛門)景高だ。
「それだけではありませぬ。それに呼応して景紀様の軍が行動を開始し、丹生郡の多くが敦賀朝倉軍の制圧下に入った模様です。」
「然もあろうな。」
大野郡司・朝倉景高は現朝倉家当主朝倉孝景の弟だ。
つまり朝倉景紀とも兄弟にあたる。
朝倉景紀は実に優秀な武将だ。
軍神・朝倉宗滴の気に入られその義息子となり、まさに文武両道の男であった。
「俺と十も違う弟だが、景紀めの武は大したものだ。」
あの義親子はまさに阿吽の呼吸で行動を起こしたのだろう。
彼等の軍は闇夜に紛れて進撃を開始したとの事だが、宗家の軍は不意を突かれたのだろう。
敦賀朝倉軍の主攻方向が木ノ芽峠であったから、側面の丹生郡の方向には注意を向けていなかったのだろうか?
越前海岸方向に敦賀朝倉軍の別働隊が進出してきたと言う情報は得ていた筈だ。
「孝景の周りには戦況を読める将も居らぬのか…」
「殿、いかがなさいますか?」
家臣の男がこちらの方を向いた。
「御屋形様より、軍を率いて参集するように命令が届いておりまする。」
「フム。ここに来て根を上げてきたと言うところか。大叔父上らよりも数が多いのにの…」
朝倉景高が腕を組みながら天井を見た。
大野郡からは四千の兵が動員できる状況だ。
「誠三郎。」
「はっ!」
「お前は兵五百を率いて戌山城に移れ。大野郡の留守居役を命ずる。」
「と、言う事は?」
朝倉景高は自分の膝をポンと叩いた。
「うむ、我が軍も準備が出来次第出立する。孝景への文を認めてくれるか?」
「はっ、命令に応ずると言う事ですな?」
「ん、まぁそうだな。要請に従い、三日後は出立できるであろう、と返書する。」
「承知仕りました。」
誠三郎と呼ばれた家臣が一礼すると場を辞していった。
「さて伝令殿。貴殿は返送して情報を届けてくれた訳だが、御立場としてはどちらの者なのかな?」
朝倉景高は家臣がいなくなったことを確認してから、目の前で膝を突いている男に話しかけた。
「…殿は某がお届けした情報をお疑いでしょうか?」
「いや、疑ってはおらぬよ。敦賀朝倉軍の戦果については大叔父上と景紀であれば然もあろうよ。」
「某が与する御方の御見当は?」
「見当はついておるが、貴殿の口から聞きたいものよ。」
「なるほど。」
伝令が深く頷いた。
「某は越中守護・神保長職様から敦賀朝倉家に派遣されている者にございます。」
「ふむ、やはりそうか。」
「つまり某がここから帰ることが出来れば、次郎左衛門様が出立される報が朝倉宗滴様にも届きまする。」
「そうであろうな。」
「…某をお斬りなさいますか?」
その瞬間、伝令からは得も言われぬ殺気の様なものが発せられた。
それを受けた朝倉景高は少し顔をしかめたが、すぐに表情を戻した。
「そのような事はせぬよ。貴殿は俺が大叔父上から文を頂いたことを存じておるのだろう。」
そう、朝倉景高は朝倉宗滴からの調略を受けていたのだった。
「孝景は優し過ぎる。優し過ぎるが故、取り入ろうとする家臣を裏切れぬのだ。そして大叔父上が離反してしまった。朝倉家随一の功労者であるはずの大叔父上がな。」
「と言う事は宗滴様の御誘いに応じると?」
「孝景を主君に戴いたままではいずれ朝倉家は飲み込まれていくだろう。一向一揆や貴殿等神保家等にな。あるいはその他の勢力かもしれないな。」
その予見は正しい。
史実では一向一揆にも押されていたし、最終的に織田家に滅ぼされてしまったのだから。
「まぁつまるところ保身だな。どうだ? 貴殿は俺を嘲笑うか?」
「いえ。正直な御方は逆に好ましく思いまする。何度も裏切るような御仁は別ですがね…」
「ふはは、言うでは無いか。」
朝倉景高が伝令に近付き、肩をバンと叩いた。
「…そういう訳だから俺は大野郡司の軍三千五百を永平寺方面に進める。その様に大叔父上と景紀へ伝えよ。」
「承知致しました。」
そう言うと伝令が音も無くその場を離れて行った。
「…ふむ。今を時めく神保殿はあのような素破を持つか。あれは敵わぬな。」
朝倉景高は大きくため息をついた。
朝倉宗滴は朝倉景高と通じていました。朝倉宗家の軍は背後を取られることになるでしょう。
なお誠三郎という家臣は架空の人物です。(朝倉景高の家臣はどのような人物がいるか分からなかったため)