83 私のしたいこと
あれから、一月ほどが立った。
この小さな王国は、少しずつ落ち着きを取り戻し始めている。
一連の事件の発端となった王太子セルマンは、父である国王によって王位継承権の剥奪を言い渡された。
あのプライドの高い彼のことだ。さぞや暴れるかと思いきや……意外にも、セルマンは素直にその処分を受け入れていた。
『なんかあの屑王子、人が変わっちゃったみたいだね』
『あの装置に性格矯正機能でもあったのでしょうか』
『んなアホな。単に怖い思いしたから尻尾丸めてビビってんだろ』
『罪の重さを実感したのかも……』
真相はよくわからないが、彼の心境にもよい変化があったのだと思いたい。
セルマンには一番被害の酷かった地域での、復興作業への従事が命じられた。
噂によると、数年は王都に戻れないということだった。
セルマンの婚約者であったカティアは、実家から勘当され巫女として辺境の神殿へと入れられたらしい。
あれだけ王妃の座に執着していた彼女のことだ。落胆しているかと思いきや……なんと意外にも精力的に奉仕活動に励んでいるのだとか。
もともとそれなりに癒しの魔法に長けていた彼女は、辺境の者たちにも重宝されていると聞いている。
(みんな、新しい道を歩み出しているんですね……)
いまだに立ち止まったままのアーシャは、静かに嘆息した。
国王と王妃からはセルマンのやらかした一連の事件について、丁寧に謝罪を受けた。
フレアとウィンディアなどは『ちゃんと自分の息子を教育しとけ!』『放任主義にもほどがありましてよ!』と少し荒れていたが、アーシャは恐縮しながら謝罪を受け入れた。
そうして二人からは……もう一度聖女の座に着いてほしいとの申し出も受けている。
神殿の巫女の中にはアーシャほどではないにしろ、精霊に好かれている者もいる。
彼女たちを新たな聖女に……と提案もしたのだが、国の安定のためにももう一度聖女の座に着いてほしいと強く懇願されてしまった。
だがアーシャは、その答えを保留にしていた。
王国の人たちが、アーシャを望んでくれているのはわかっている。
以前のアーシャだったら、一も二もなく彼らの提案に頷いていただろう。
だが、今は……どうしても、思ってしまうのだ。
あの、にぎやかな魔王城に帰りたいと……。
戻って来るなとは言われていない。それどころか、ファズマからは「ポチが寂しがっているから早く帰ってこい」とも言われている。
ポチや他の皆に会いたい。魔王城に帰りたい。
その想いは日増しに膨らんでいくのだが……どうしても、怖かった。
(魔王城に戻っても、もう前のように私の居場所はないのかもしれない)
以前聞いた、ルキアスの過去の話が頭に蘇る。
ルキアスにはアレグリア王国に想いを寄せる女性がいて、彼女のために魔王領を住みよい場所にしようと尽力していた。
そして、魔王領は少しずつ変わっていき、今回の事件ではアレグリア王国との国交もできたのだ。
きっと今頃、愛する女性を魔王城へ迎え入れているのに違いない。
偽の婚約者であるアーシャはもう必要ないのだ。
今更のこのこと戻っても、ルキアスの彼の恋人の仲睦まじい様を見せつけられるだけなのだから。
その様子を想像するだけで、胸が締め付けられるように苦しくなる。
実際にその光景を目にしてしまったら、平然としていられる自信はない。
(馬鹿みたい。最初から、魔王様が私の聖女の力にしか興味がないことくらい、わかっていたのに……)
優しい彼は、きっとアーシャが帰れば魔王城に置いてくれるだろう。
だが、彼の隣には既に別の女性がいる。
そう考えると、どうしても帰る勇気が出ないのだ。
一人になりたくて王城のバルコニーへと出て、アーシャは小さくため息をついた。
『アーシャ、あんまり悩みすぎるのはよくないよ』
『病は気から……』
「ありがとうございます。……そうですね」
いったい自分はどうすればいいのだろう。
なんだか足場がぐらついているような、道標を失ってしまったような気がして、アーシャの気分は晴れないのだ。
『アーシャ、周りに何を言われようが関係ありません。アーシャはアーシャの望む通りに行動すればよいのです』
『そうそう。誰かが文句言って来たら俺たちがぶっ飛ばしてやるから心配すんなよ!』
(私は、私の望む通りに……)
大きく息を吸い、アーシャは今一度己の心に問いかける。
果たして自分はどうしたいのか、と……。
(そう、私は……)
「魔王城に、帰りたい」
そう口にした途端、すとんとその言葉が胸に落ちてくる。
そうだ。アーシャにとって既にあの場所は、生贄として送られた死地ではなく……帰るべき場所となっていたのだ。
可愛らしいポチやモフクマ、ファズマやバルドやプリム……それに、魔王ルキアスがいるあの場所へ。
早く、帰らなければ。
(そうだよね、私ってばいったい何を悩んでいたんだろう)
ルキアスの隣に別の女性がいるのを見るのは確かにつらいかもしれない。
だが、それ以上にアーシャは皆に会いたかった。
(この国もかなり落ち着いてきたし、とりあえず一回帰っても大丈夫だよね)
そうと決まったらさっそく国王陛下に話をしなければ。
そう考え踵を返そうとした時、バルコニーへ誰かがやって来るのが見えてアーシャは足を止めた。
「ここにおられたのですね、聖女様」
やってきた相手に、アーシャは慌てて佇まいを直した。
そこにいたのは、二十代半ばの男性だ。
彼はもともと王家の分家筋の公爵家の人間だったが、セルマンの廃嫡に伴って王家の養子となり、現在は新たな王太子となっている。
(確か名前は……)
「ご、ごきげんよう、サイモン殿下」
なんとかギリギリで名前を思い出し、アーシャはぎこちなく礼をしてみせた。
できればそのまま立ち去ってほしかったのだが、サイモンは会話を続ける気のようだ。
「何かお悩みですか?」
近づいてきたサイモンが、朗らかな笑みと共にそう口にする。
「えっと、今後のことについてなのですが、私は――」
「聖女様」
言葉の途中で急に手を握られ、アーシャは思わずびくりと身を竦ませた。
『イリーガルユースオブハンズ!』
『レッドカード! 一発退場ですわ!!』
フレアとウィンディアは騒ぎ出し、アクアとアースにまぁまぁと宥められている。
彼らが暴走しないことを願いつつ、アーシャはいかに穏便にこの場を去るかを必死に考えていた。
だが、そんなアーシャの心中を知る由もないサイモンは、ここがチャンスとばかりにぐいぐい距離を詰めてくる。
「巷ではあなたがセルマン殿下に婚約を破棄されたことについて騒ぐ輩もいるようですが、私はまったく気にしておりません」
「えっと、ありがとうございます……?」
「あなたは素晴らしい聖女であり、それ以上に素晴らしい女性だとお見受けいたします。……貴女さえよければ、私はあなたを妃として迎え入れたいと存じます」
「え?」
うっかり適当に頷きそうになって、アーシャは慌てて顎を引いた。
ちょっと待て、今彼はなんと言った!?
『うわ~、モテ期到来じゃん! アーシャ、どうするの?』
『なんか嫌な予感……』
『はあぁぁぁぁ!!? いつまでアーシャに迷惑かけんだよこいつらは!』
『いますぐぶっ飛ばして差し上げますわ!!』
精霊たちは囃し立てたり怒り狂ったりと忙しいが、アーシャの心は決まっていた。
「サイモン殿下、私は――」
ウィンディアが本当にサイモンをぶっ飛ばしてしまう前に、断りの文句を口にしようとしたその時――。
「うわっ!」
サイモンの足元に軽く雷が落ち、彼は慌てたように飛び退いた。
こんな晴れた日にいったいどうして……と空を見上げたアーシャの目に映ったのは、一対の黒い翼。
(そんな、まさか……)
驚きに目を見張るアーシャの目の前、バルコニーの手すりの上へ、彼――魔王ルキアスはしなやかに降り立った。




