8 魔王様に求婚されました
ファズマに先導され、アーシャは魔王城の奥へ奥へと進んでいく。
《瘴気がすごいよ……。アーシャ、大丈夫?》
《シンプルに、危険……》
「大丈夫ですよ。これでも、瘴気耐性は強い方なんです」
声をかけてきたアクアとアースに頷き返し、アーシャはそっと息を吸った。
聖女のアーシャだからこそ少し息苦しい程度で済んでるが、きっと並の人間なら卒倒するほどの瘴気に満ちている。
やがて一行がたどり着いたのは、まがまがしい紋様の描かれた巨大な扉の前だった。
「こちらが。魔王陛下のいらっしゃる大広間です」
ファズマが扉に触れると、紋様が妖しげな光を放ち重い音を立てて扉が開いた。
《自動扉か、やるな……》
《感心している場合じゃないですわ》
アーシャは意を決して、一歩足を踏み出した。
その途端に、あちこちから視線が突き刺さりぞわりと肌が泡立つ。
大広間には、多くの魔族が控えていた。人間に似た姿の者もいれば、一目で異形だとわかる者もいる。
そして、大広間の一番奥……恐ろしくも荘厳な玉座に座す男――彼こそが、この城の主の魔王なのだろう。
見た目は、人間とそう変わらないだろう。
闇夜のような漆黒の髪に、鮮血のような赤い瞳の若い男だ。
だが、ひとたび彼の視界に入ったというだけで、全身を見えない鎖で戒められたかのような、底知れない威圧を感じる。
アーシャは思わず足が震えそうになってしまった。
「我がもとに来たれ、聖女よ」
その声が耳に入った途端、アーシャはまるで操られるようにふらふらと足を進めていた。
《待て、アーシャ!》
《うかつに近づくと危険ですわ!》
精霊たちの警告が耳に入り、アーシャははっと我に返る。
だが……。
「羽虫がうるさいようだな」
魔王がそう呟き、軽く指を鳴らした途端――。
《きゃあ!》
《っ……!》
アーシャの周囲に結界のようなものが張られ、ついてきてくれた精霊たちが弾き飛ばされる。
「みんなっ……!」
アーシャは慌てたが、その時魔王が玉座から立ち上がり、そこから目が離せなくなってしまった。
コツコツと靴音を響かせ、魔王はゆっくりと近づいてくる。
……逃げる時間なら、いくらでもあっただろう。だがアーシャはまるでその場に根が生えたかのように、動くことができなかったのだ。
彼の瞳に見つめられただけで、指一本動かすこともままならなくなってしまう。
「ぅ……」
ついに、魔王が目の前までやってきてしまう。
アーシャは目を逸らすこともできずに、ただ必死に魔王を見つめ続けた。
彼は何の感情も覗かせない無機質なガラスのような瞳で、じっとアーシャを見下ろしている。
(殺、される……)
じわじわと真綿で首を絞められるかのような圧迫感に、アーシャは冷や汗をかいていた。
渡り人とはすなわち生贄。目の前の男は魔王。
どう考えても、生贄として彼に殺される未来以外は見いだせなかった。
だが……。
「えっ」
急に魔王が目の前に跪いたので、アーシャは驚きに息をのむ。
どうやら大広間に集まった他の魔族にとっても魔王の行動は意外だったようで、あちこちからざわめきの声が聞こえた。
だが魔王は意に介した様子もなく、まっすぐアーシャを見つめ続けている。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「人の国より参られし聖女よ。そなたを我が伴侶に望み、結婚を申し込みたい」
「…………え?」
呆然とするアーシャの手を取り、魔王がそっと手の甲に口づけた。
その感触にアーシャは一気にパニックに陥った。
(どどど、どういうこと!? 伴侶!? 結婚を申し込む!? これって魔族的にいうと
「今から殺すぞ」ってこと!!?)
《テメェふざけんなコラ!》
《けだもの! アーシャから離れなさい!》
《うわーん! お嫁に行くのはもっと先だと思ってたのに~》
《花嫁修業、始めなきゃ……》
精霊たちが結界の外で騒いでいる。
アーシャよりもずっと長命で物知りな彼らにとっても、今の魔王の行動は求婚だと取れるようだ。
(ど、どうしよう……結婚を申し込まれたからには、返事をしないといけないのよね?)
しかし何と答えればいいのだろう。
ぐるぐると考え込んでいるうちに、どんどん焦燥と緊張感が増していき……。
――ぐうぅぅぅぅ……。
まるでドラゴンのいびきのように大きな、アーシャの腹の音が大広間にこだました。
「な、何だ今のは……」
「トロールの雄たけびか!?」
「あの聖女、体内に化け物でも飼っているんじゃないか!?」
そんな魔族たちのざわめきが耳に入り、アーシャは羞恥心で死にそうになっていた。
(わあぁぁぁ恥ずかしい……! もう、この際なんでもいいから……!)
真っ赤になって俯いたアーシャは、とにかくこの場から逃れたい一心で……やけくそ気味に言い放った。
「三食ごはんを頂けるのなら、お受けいたします!」
その言葉に、大広間は一瞬静まり返り……次の瞬間、阿鼻叫喚に陥った。
魔族たちは大騒ぎし、精霊たちは発狂していた。
だが、目の前の魔王だけは……なぜかくつくつとおかしそうに笑っている。
「なるほど……承知した。君のために三食とはいわず、間食や夜食も用意しよう、花嫁殿」
(…………案外悪くないかも)
混乱しきったアーシャはうっかりそんなことを考えてしまい、魔王に向かってこくりと頷いた。