76 あの日の思い出(6)
「っ……!」
鋭い爪先がアーシャの柔肌を切り裂く寸前に、ルキアスは我に返り飛び退く。
その反応を見て、魔族の男はケラケラと笑った。
「なんだぁ? やっぱりあんた……このガキを殺せないのか。これは傑作だな! 次期魔王様ともあろうあんたが、人間のガキ一匹に翻弄させるなんてな!」
魔族の男はアーシャを盾にしたまま、愉快でたまらないとでもいうように笑っている。
アーシャは恐怖のあまり気絶したのか、だらりと力を抜いている。
ルキアスは血が出るほど拳を握り締めた。
……すべて、自分のせいだ。
自分の迂闊な行動のせいで、こんな風にアーシャを危険にさらしてしまうとは――。
「このガキの命が惜しいか? なら、俺の言うことに従え。まずは――」
「わああぁぁぁ!!」
「!?」
ルキアスは驚愕した。
なんと気絶したとばかり思っていたアーシャが、思いっきり暴れて魔族の男に肘打ちを噛ましたのだ。
「ぐっ……!」
幼子の力とはいえ、不意打ちにはなったのだろう。
魔族の男が呻いた隙に、アーシャは叫んだ。
「おにーさん! 逃げて!!」
彼女は、こんな自らの命が危うい状況でも、ルキアスを逃がそうとしたのだ。
その清らかな輝きを、決して汚させはしない。
「この……クソガキがっ!」
人間の子どもに不意を突かれた魔族は激昂し、アーシャの細い首をへし折ろうと力を込めようとした。
だが、ルキアスはアーシャの作ってくれた隙をむざむざ無駄にはしなかった。
素早くアーシャの小さな体を奪い返し、胸元に抱き込むと……お返しに強烈な一撃をくれてやる。
「消えろ」
その言葉と共に、激しい雷撃が魔族の男を直撃した。
断末魔を上げる暇もなく、無謀な魔族は消し炭と化した。
だがその様子には目もくれずに、ルキアスはおそるおそる腕の中の小さなぬくもりを確認する。
アーシャは少し怯えた様子だったが、ルキアスと目が合うとへにゃりと笑った。
その表情を見た途端、ルキアスの胸の内に激流のような感情が押し寄せる。
力強く、それでも壊さないように……ルキアスは目の前の小さな体を搔き抱いた。
「…………済まなかった」
「……ううん。おにーさん、わたしのこと助けてくれたでしょ。……嬉しかったよ」
アーシャの指がそっとルキアスの胸元を掴む。
その指がかすかに震えていることに気づいて、ルキアスは唇を噛んだ。
……いっそこのまま彼女を攫って、魔族の地まで連れて行ってしまおうか。
そんな思いが頭を駆け巡る。だが、ルキアスはそうしなかった。
魔族の地はいまだ激しい争いのさなかにあり、人間の幼子であるアーシャには危険すぎる。
今回のように、アーシャが人質に取られないとも限らない。
「…………」
断腸の思いで、ルキアスはそっとアーシャの体を離した。
……まだ、時期尚早だ。
魔王の座を巡って争いが起きているのなら、自分が魔王の座についてその争いを終わらせてやる。
アーシャが大手を振って歩けるような、そんな国を作り上げるのだ。
だから、それまでは……しばしの別れを。
「アーシャ! どこなの!? 返事をして! アーシャ!!」
やがて遠くから、半狂乱の女性の声が聞こえてくる。
きっと、アーシャの母親だろう。
そこで、ルキアスはふと考えた。
もしもこの先、アーシャがルキアスのことを誰かに話してしまったら……。
きっと、奇異の目で見られてしまうだろう。それだけじゃない。今回の襲撃もアーシャが引き起こしたものだと、あらぬ疑いを掛けられてしまう可能性もある。
……彼女を守るためには、記憶の封印が必要だ。
ルキアスはそっとアーシャの前にしゃがみ込み、額が触れ合うような距離で視線を合わせた。
そして、囁くように告げる。
「アーシャ……。今回のことは……俺のことも含めて、すべて忘れろ」
魔力を込めた誘導催眠だ。幼い子どもであるアーシャに対しては、これで十分だろう。
とん、と首の後ろを軽くたたくと、アーシャは糸が切れたように意識を失った。
その体を目立つところに横たえ、ルキアスは後ろ髪引かれる思いでその場を後にした。
ここに来た時のような中途半端な思いはもうない。
一刻も早く魔王の座を手に入れ、アーシャを迎える準備をしなければ。
ルキアスは再会を確信していた。
いずれアーシャが成長し、すべてを思い出す日が来たら……今度こそ、離しはしない。




