74 あの日の思い出(4)
それから、アーシャは暇さえあればルキアスの元へ入り浸るようになってしまった。
「それでねー、向こうの家の羊に赤ちゃんが生まれてねー」
彼女の口にする内容は、たいしてルキアスの興味を引くものではなかった。
だがそれでも、ルキアスは飽きずにぺらぺらと話し続けるアーシャの声を聞いていた。
女の、それも幼子の声など耳障りだと思っていたが……不思議と、いつまでも聞いていられるのだ。
ルキアスは言葉を返すことも相槌を打つこともないが、アーシャはそれでも楽しそうに話を続けている。
甲斐甲斐しく食事を運び、好奇心に満ちた目でルキアスの傷口の具合をチェックし、薬を塗り直し包帯を変え、咎められるまでペタペタと触っている。
……いくらなんでも無防備にもほどがある。
人間の子どもが、このように無垢な生き物だとは思っていなかった。
村の大人が踏み込んでこないところを見ると、アーシャは誰にもルキアスの存在を打ち明けていないようだ。
(まったく、相手が俺じゃなかったらどうするつもりなんだ)
ここに来たのが他の魔族であれば、アーシャなど頭からバリバリと食べられていたかもしれない。
そう考えると胸がむかむかしてきて、ルキアスは知らず知らずのうちにため息をついていた。
「……?」
そこでふと、先ほどまでやかましかったアーシャの声がしないことに気づく。
いったいどうしたのだろうか……と慌てて視線を下げる。
するとそこには――壁に背を預け、すぅすぅと可愛らしい寝息をたてながらうたた寝をするアーシャの姿があった。
(よくもこの状況で寝られるな……)
彼女は少しもルキアスのことを恐れていないのだ。
そのあどけない寝顔を見ていると、なぜだか胸が締め付けられるような……今までに経験したことない不可思議な感情に襲われてしまう。
目を離すこともできなくて、ルキアスはじっとアーシャの寝顔を眺めていた。
「ん……」
やがてアーシャの頭がこてりと傾き、その拍子にぐらりと体が傾きかけてしまう。
「っ……!」
ルキアスは反射的に、アーシャの体を支え、自らにもたれかかるような姿勢を取らせていた。
おかげでアーシャは穏やかな表情で、相も変わらず気持ちよさそうな寝息を立てている。
彼女が寄りかかっている部分から、じわじわと温かなぬくもりが伝わってくる。
……他人の体温なんて、不快でしかなかったはずなのに。
それなのに、胸の奥底が満たされていくような……確かな充足感を覚えはじめていた。
(まったく、理解しがたい……)
そんな自身の変化に戸惑いつつも、ルキアスはゆっくりと目を閉じた。
長閑な農村の空気、外から聞こえる小鳥のさえずりと、すぐ隣の穏やかな寝息。
それに……触れた場所から伝わってくる、温かなぬくもりに誘われるように。
気が付けば、ルキアス自身も睡魔に襲われ始めていたのだった。
「ん、ん~。よく寝たぁ……」
隣からくぁ……とあくび交じりの声が聞こえ、ルキアスははっと目を覚ました。
傍らのアーシャへ視線を落とすと、へらりと気の抜けた笑みを浮かべた彼女と目が合った。
「えへへ、寝ちゃってたみたい。おにーさん退屈だったでしょ」
まさか自分も眠っていたとは言えずに、ルキアスはそっけなく呟く。
「……別に、静かでせいせいした」
そう言うと、途端にアーシャは柔らかな頬を膨らませ、ルキアスの肩の辺りをぽかぽかと叩いてくる。
「むぅ、そんなこと言って……。わたし、そんなにうるさくないよ!」
「どうだかな」
「もー! おにーさんのいじわる!!」
ぷんぷんと憤慨するアーシャを見ていると、得も言われぬ暖かな感情に満たされる。
……ずっと、こんな時間が続けばいい。
そんな、あり得ない上にらしくもない考えが頭に浮かび、ルキアスは自嘲した。
気が付けば、外は夕陽が沈みかけている。
あまり家に帰るのが遅くなると、アーシャの家族も心配して探しに来てしまうかもしれない。
「そろそろ、帰った方がいいんじゃないのか」
「あっ、そうだね。また来るからね、おにーさん!」
アーシャは子どもらしく大きく手を振って小屋を出ていく。
その姿を見送るルキアスの口元は、いつの間にか緩く弧を描いていた。
「また来る、か……」
いつの間にか、その言葉に救われ始めている。
……もう、認めないわけにはいかなかった。




