73 あの日の思い出(3)
「ちょっと染みるけど我慢してね~」
「…………」
少女は幼子とは思えない慣れた手つきでルキアスの傷口を清め、薬を塗っていく。
確か母親が『くすし』――薬師だと言っていただろうか。
もしかしたら普段から、親の仕事を手伝っているのかもしれない。
まったく警戒することなくルキアスに近づいてきたときは大丈夫かと思ったものだが、先ほどとは打って変わって真剣な表情をしている少女を見ていると驚かされる。
……人間とは、本当に奇妙な生き物だ。
「はい、できた! しばらくは安静にしてた方がいいよ」
少女は自分一人で手当てができたことが嬉しいのか、何度も包帯を巻いたルキアスの傷口を撫でている。
「……そんな風にされると傷が悪化しそうなんだか」
「あっ、ごめんなさい」
てへへ……と笑う少女を見ていると、不思議と怒る気にもなれない。
やっと傷口を観察することに満足したのか、少女は今度は顔を上げ、まじまじとルキアスの全身を眺めているようだった。
「おにーさんは遠くから来たの? いいなぁ、わたしはこの村から出たことないからうらやましいよ」
ルキアスは黙っていたが、少女は何が楽しいのかべらべらと一人で喋り続けている。
そのおかげで、ルキアスは望まずして目の前の少女の情報を手に入れることができた。
名はアーシャ。年齢は6歳。父は木こりで母は薬師。
ちょうど村には年の近い子どもがいないので、普段は一人で遊びまわっているらしい。
好きな食べ物は母親が焼いてくれるアップルパイ……と話したところで、アーシャは何かに気づいたかのように「あっ」と声を上げた。
「おにーさんお腹空いてない? さっきおかーさんがアップルパイ焼いてたんだ! そろそろ焼きあがってると思うから持ってくるね!」
そう言うと、アーシャはルキアスの返事など待たずにタタッと走っていった。
……その姿はまさに、ちょこちょこと動くホーンラビットのようだ。
今まで小型魔獣をペットにする者の気持ちなどまったく理解できなかったが……ほんの少しだけ、理解できたようなような気がする。
(いや……何を考えてるんだ俺は)
怪我をしているせいか、頭が上手く回っていないのかもしれない。
……ここに来てからというもの、どうにも調子が狂う。
そっと自らの腹部にまかれた包帯に触れ、ルキアスは嘆息した。
「おまたせ! おにーさん、生きてる?」
そして、再び開口一番の生存確認である。
ルキアスが不快そうに眉根を寄せると、アーシャはぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「りんごのタルト持ってきたの。いっしょに食べよ!」
アーシャはうきうきと手にしていたバスケットを開いた。
中に入っていた可愛らしいランチクロスの包みを開くと、そこにはぷんぷんといい匂いをさせた食べ物が。
ルキアスは見たことがなかったが、おそらくは彼女が言っていた「アップルパイ」なのだろう。
「あっ、フォーク一本しか持ってきてないや。まぁ、いっか!」
少女は拙い手つきでタルトを小さく切り分け、一切れをフォークに突き刺す。
そして、満面の笑みでルキアスに向かってフォークを差し出してきた。
「はい、どうぞ!」
最初は彼女が何を求めているのかわからず、ルキアスは目を瞬かせた。
そんなルキアスの態度をどう思ったのか、アーシャはぐいぐいとフォークに刺さったアップルパイを押し付けてくる。
「お腹空いてないの? おかーさんのアップルパイおいしいよ?」
……もしやこれは、ルキアスに食べさせようとしているのだろうか。
ぐいぐいと口元にアップルパイを押し付けられながら、ルキアスは混乱していた。
……これは、人間の風習なのだろうか。
だとすれば、まったく理解できそうになかった。
「あっ、もしかして……まずいと思ってるんでしょ! そんなことないんだから!」
頑なに口を閉ざすルキアスに、アーシャは憤慨し始めてしまった。
ルキアスに押し付けていたフォークを自らの口元に持っていき、ぱくりと食いついてみせる。
「ん~、おいし~!」
そして、とろけそうな笑みを浮かべてみせたのだ。
その幸せでたまらないという表情に、不覚にもルキアスは視線を奪われてしまった。
その隙を、アーシャは見逃さなかった。
「隙あり!」
「むぐっ」
チャンスとばかりに、アーシャは一口かじったアップルパイをルキアスの口の中へと押し込んできた。
そしてルキアスは……なんと、されるがままにアップルパイを食べてしまったのだ。
(なっ、どういうことだ……!?)
ルキアスは自らの反応が信じられなかった。
普通、こんな風に不意を突く攻撃を仕掛けられたとしても、意識せずとも反撃に転じることができる。
今のように目の前まで敵が迫ったとしたら……考える間もなく捻りつぶしていただろう。
それなのに、アーシャ相手だとまったく体が動かなかった。
目の前の少女を傷つけることを、無意識のうちに拒否していたのだ。
その事実に気づき、ルキアスは愕然とした。
だがそんなルキアスの様子を見て、アーシャの表情がみるみる曇っていく。
「もしかして、おいしくなかった……?」
その悲しそうな顔を見ていると、ルキアスの胸にうちに名状しがたい感情が生まれた。
その表情を曇らせてはいけない。
彼女は太陽のように明るい笑みを浮かべていたり、母親の手作りのアップルパイを食べて、頬がとろけそうな顔をしていなければいけないのだ。
「……別に、まずいわけではない」
ぽつりとそう口にすると、すぐにアーシャはぱっと明るい笑みを浮かべた。
その変化に、ルキアスは存外ほっとしたものだ。
「よかった! もっとたくさん食べてね!」
一番の大好物だと話していたのに、アーシャは自分で口にするよりもどんどんとルキアスに食べさせようとしてくる。
もそもそとアップルパイを口にするルキアスを、アーシャはにこにこと嬉しそうに見守っていた。
相手を蹂躙し、根こそぎ奪いつくすのが流儀の魔族から見れば、信じがたい行動だ。
(まったく、調子が狂う……)
自分の中に生まれた奇妙な感情に戸惑いつつも、ルキアスはそれを不快には感じていないのに気付いていた。




