70 再会
幼い頃に両親を亡くし、アーシャはこの世界の理不尽さを知った。
誰もが、いついなくなってもおかしくはない。もちろんそれは、アーシャ自身も同じだ。
ずっと、そう思って生きてきた。
だから、渡り人――実質「生贄」として魔族の地へ送られた時も、驚きはしたが恐れたり命を惜しむ気持ちはなかった。
たとえアーシャが志半ばで倒れようとも、それが世界の理なのだ。
そう、思っていたはずなのに……。
魔族の地で過ごした日々の思い出が頭の中を駆け巡り、足取りを鈍らせる。
生贄として送られたはずのあの場所へ、帰りたいと思ってしまう。
そんな自分の変化が信じられなかった。
「……おい、何をやっている」
背後からセルマンの苛ついた声が聞こえ、アーシャははっと我に返った。
「早く儀式を進めろ!」
「はっ、はい!」
セルマンに急かされた兵士の一人が、済まなさそうな顔をしてアーシャの背に触れる。
「……申し訳ございません、聖女様」
彼がそう呟いた、その時だった。
「何だ……!?」
急に、視界が暗くなる。
観衆から不安そうなざわめきが上がり、セルマンも戸惑ったような声を上げた。
アーシャは反射的に上空を見上げた。
すると、先ほどまで憎らしいほど晴れ渡っていた空が、一瞬のうちに暗雲に覆われていくさまが見えた。
……まるで、神の怒りに触れたかのように。
その異様な光景を見て、民衆たちはパニックになり兵士たちは恐怖に固まっている。
ただセルマンの喚き声だけが、場違いのように響いている。
「何をやっている! 早くアーシャを装置の中に入れろ!」
だが、その指示に従うものは誰もいなかった。
皆不安そうに顔を見合わせ、震えているのだから。
「やはり天罰だ」
「聖女様を貶めた我らへの天罰なんだ……!」
「国王陛下が不在の間にこんな真似をするなんてやっぱりおかしかったんだよ!」
だんだんと、セルマンとカティアに非難の視線が向けられていく。
「なっ……!」
カティアは顔を真っ青にして、セルマンは信じられないといった表情でわなわなと震えている。
「なぜ俺の命令を聞かない……? 俺はこの国の王太子、次期国王だぞ!?」
セルマンはそう叫んだが、やはり動く者はいなかった。
「くっ……!」
ついにしびれを切らしたのか、セルマンは表情を歪めつかつかとアーシャへ向かって足を進めてくる。
「こうなったら俺が直々に引導を下してやる! 覚悟しろ、アーシャ!」
彼の手がアーシャへと延びる。
思わずアーシャが一歩後ずさった、その途端――。
暗雲を貫いて、まるでアーシャを守るかのように、一筋の稲妻がセルマンの目の前へと落ちた。
「ぐあっ……!」
直撃はしていないだろうが、余波を受けたのかセルマンが呻きながら倒れた。
アーシャは動くことすらできずに、呆然とその光景を見ていた。
いきなり落ちてきた雷に怯えたのではない。
目の前の光景に、封じられていた記憶を刺激されたからだ。
(今の光景、どこかで……)
ずきりと頭が痛み、いくつもの光景がフラッシュバックする。
のどかな農村、今よりもずっと高く見えた空、キラキラ輝いていた世界……。
探検気分で踏み込んだ物置小屋、むせ返るような血の匂い、その中で見つけたのは……。
魔獣の襲撃、逃げまどう人々、目の前まで獰猛な牙が迫った時、その体を貫いた一閃の雷。
そして、何よりも鮮烈にきらめいていた、血のように真っ赤な瞳……。
(あぁ、私はあの色を知っている)
あの瞳に見つめられるだけで、いつも心が揺らめいてしまうのだから。
でも、もしかしたらアーシャの心の奥底の記憶が、ずっと訴えかけていたのかもしれない。
彼を知っているだろう、と……。
ばさり、と翼がはためくような大きな音が聞こえ、アーシャは顔を上げた。
暗雲の向こうから、真っすぐにこちらへ飛んでくる黒い影。
周りに者たちはその不吉な姿に恐れおののいているが、アーシャは少しも怖くはなかった。
やがて、その者――魔王ルキアスは悠々とアーシャの前に降り立つ。
彼は表情をひきつらせながら何事かわめくセルマンにも、恐慌状態の周囲の者も意に介さず、真っすぐにアーシャだけを見つめ、微笑んだ。
「……遅くなって済まなかったな、聖女殿」
アーシャは静かに首を横に振り、微笑む。
「いいえ……また私を助けて下さり、ありがとうございます」
「バルドの時のことか? あれは不可抗力だし、あいつは君を傷つけるつもりはなかっただろうが――」
「ふふ、そうじゃなくて……昔、この国に侵入した魔獣から私を助けてくださいましたよね」
鎌をかけるようにそう言うと、ルキアスは驚いたかのように目を丸くした。
その反応に、アーシャは確信する。
(あぁ、やっぱり……)
あの記憶は、嘘じゃない。
ずっと昔、幼い頃に……アーシャは、彼に会ったことがあるのだ。




