68 魔王様、動く
夜の帳が降り始めた薄暗い部屋で、ファズマは緊張気味に自らの主――魔王ルキアスと対峙していた。
ファズマはかつて彼の強さに畏怖を抱き、仕えることを決めた。
この地を平定してからというものの、かつての鬼神のような凶暴さは鳴りを潜め、彼は歴代でも珍しい平和主義な魔王として君臨していた。
だが、今目の前にいる彼は……意見して落ち着いているようにみえるが、ぴりぴりと肌を刺すような荒ぶる気配を感じずにはいられなかった。
原因はわかりきっている。
置手紙だけを残して、聖女にして彼の婚約者――アーシャが姿を消したのだ。
ファズマは気を落ち着けるようにして息を吸うと、静かに口を開いた。
「陛下、聖女殿の匂いを追跡させたところ……やはり、人間の国へ向かったようです」
最初はまたなにか突拍子もないことを思いついて、少し城を空けているだけかと思っていた。
だが、彼女が可愛がっているダイアウルフ――ポチがとぼとぼと一頭だけ魔王所へ戻ってきたことで、事態の重さを悟ったのだ。
すぐに配下の魔獣を動員して彼女の匂いを追跡させたところ……真っすぐに人間の国へと続いていた。
……まさか、逃げたのだろうか。
普通に考えればその可能性が高いのだが……どうしても、ファズマにはアーシャが魔王城を逃げ出したとは思えなかった。
通常の人間であれば、魔族や魔獣がうろうろしている魔王城で暮らすなど、到底耐えられるものではないだろう。
だがファズマの目から見たアーシャは、どこまでも規格外だった。
――「ごめんなさい、ファズマさん。特にやることがなかったので、私がモフクマさんたちに頼んで仕事を手伝わせてもらってたんです」
魔王城へやってきてすぐに、そんなことを言って危険な雑用をこなし始める始末。
あてつけのように「門番の仕事が空いている」と言えば馬鹿正直に門番を始め、誘拐されたかと思えば誘拐犯を手懐け……まったく、何もかもがファズマの予想を超えていた。
アーシャがやって来てから、確実に魔王城の空気は明るくなった。
諍いが絶えなかった部族同士も、少しずつ変わり始めている。
魔王ルキアスが圧倒的な力で他を押さえつけ手にした見せかけの平和が、本当の平和に近づきつつあったのだ。
そんな状況だからこそ……こんな風に何も言わずにアーシャが姿を消すとは思えなかった。
彼女が向かったのは人間の国、彼女の生まれ故郷だ。
ただの里帰りなら彼女の性格上堂々と言い出しそうなものだし、なにかよからぬトラブルに巻き込まれたとしか思えなかった。
だが、魔王ルキアスの厳命で人間の国への侵攻は固く禁じられている。
ルキアスがこの地を統一した直後、掟を破り人間の国へと侵攻しようとした一団がいた。
愚かにもルキアスの怒りに触れてしまった彼らの末路は……荒事に慣れている魔族ですら口にするのをはばかるものだった。
とにかく、アーシャの行方を探ろうとしてもルキアスの許可なしに国境を超えることもできないのだ。
「……魔王陛下。ここまで音沙汰がないとなると、聖女様の御身に何かあった可能性もあります。細心の注意を払い、このわたくし自身が参りますので……どうか、人間の国への越境のご許可を」
ファズマは深々と頭を下げた。
誰に命じられたわけでもない。自らの意思で、アーシャを探したいと思ったのだ。
だがルキアスは、そんなファズマをじっと見つめ、静かに頭を振った。
「その必要はない」
「なっ、陛下……!」
彼の言葉が信じられず、ファズマは目を見開く。
彼がアーシャを迎え入れ、婚約までしたのは……彼女の地位を確立させ、聖女の力を利用したいという意向が強かったのだろう。
彼には人間の想い人がいるというのも知っている。
だがそれとは別に、アーシャのことも可愛がっていたはずだ。
なのにこんなに簡単に、見捨てるとは信じられなかった。
「陛下……! いくらなんでも聖女様を見捨てるのは――」
「誰が見捨てると言った?」
ずっと窓の外を見ていたルキアスがゆらりとこちらを振り返る。
その瞳に宿った苛烈な光に、思わず背筋に冷たいものが走る。
ここが戦場だと錯覚するような、久しく忘れていた感覚だ。
目の前の彼は表面上は穏やかな顔をしている。だがまるで、初めて出会った頃のような……肌を焼くような殺気を感じずにはいられなかった。
「……しばらく、城を空ける。場合によっては国一つ滅ぼすことも厭わないので、軍備を進めてくれ」
「……どちらへ、行かれるのですか」
それが愚問だということはわかっていた。
この状況で彼が向かう先……そんなの、一つしかないのだから。
「人間の国――アレグリア王国だ。我が婚約者を取り戻しに行く」
ルキアスがばさりと漆黒の翼を広げる。
そのままバルコニーへと足を進めたかと思うと、彼は宵闇へと身を躍らせ、渡り鳥のように飛んでいった。
……アーシャが消えた、人間の国へと向かって。




