62 これは異常事態です
ポチを駆り、あっという間にアーシャはアレグリア王国と魔王領を隔てる森の前までやって来ていた。
鬱蒼と生い茂る目の前の森を見ていると、初めてここに来た時のことを思い出す。
(懐かしいな……)
生贄としてこの地へ送られ、お腹を空かせていた時にドラゴンに乗ったファズマが現れた。
そのまま魔王城へ連れていってもらい、魔王ルキアスと相対し……三食おやつ付きという条件で、彼と婚約したのだ。
人間と魔族は常識も考え方も生活様式も何もかもが違って、戸惑うこともあった。
でも少しずつ、アーシャは彼らに歩み寄っていった。
その結果……少しはこの地も住みやすくなったのではないだろうか。
ルキアスが望んだとおりに、聖女の力でこの地に平和をもたらすことができた……というのは買いかぶりすぎだろうが、少しは彼の役に立てたはずだ。
だから……もしもアーシャがいなくなっても、きっともう大丈夫だろう。
『ねぇアーシャ、ほんとに行くの?』
『あんなクソみたいな王太子の治める国なんて、ほっとけばいいだろ』
「……いいえ、そんなわけにはいきません」
あの手紙の内容が真実ならば、アーシャの行動が王国の精霊たちの怒りをかってしまったということらしい。
アーシャと一緒に居る精霊たちは「そんなことあるわけない」と慰めてくれるが、胸の内の不安は消えなかった。
「私が戻らなければ、セルマン王太子は巫女の誰かを犠牲にすると書いてありました。それでも収まらなければ、きっと次の巫女をまた生贄に。そんなことを看過するわけにはいきません」
まずは状況を確認し、セルマン達とも協力し、事態の収拾に勤めなければ。
「ここまでありがとうございました、ポチ。魔王城へ戻っていてもらえますか?」
「クゥン……」
いつも聞き分けのいいポチだが、今日はなかなかアーシャから離れようとしなかった。
ポチは察していたのかもしれない。
これからアーシャが向かうのは、帰って来られる保証のない場所だということに。
うるうると瞳を揺らすポチをそっと撫で、アーシャは優しく語り掛けた。
「……大丈夫ですよ、用が済んだらすぐに戻ってきます。本当はポチも連れていきたいけど、王国の皆が驚いてポチを傷つけるかもしれないから、いい子で待っていてくださいね」
何度も何度もそう頼み込むと、ポチは観念したように「きゅうん」と鳴いた。
「元気でいてくださいね、ポチ。ごはんはファズマさんに頼めばおいしいものを作ってくれるはずですからね!」
何度も何度も手を振って、アーシャは意を決して、森の中へと足を踏み入れた。
その途端感じるのは、懐かしい空気。
だがどこか、ピリピリと肌を刺すような違和感を覚えずにはいられなかった。
『……確かに、森の精霊たちの様子がおかしいですわね』
『荒ぶってる感じ……』
「えっと……その原因はわかりますか?」
アーシャが問いかけると、精霊たちは躊躇することもなく教えてくれた。
『聖女がいないから、統率が効かないんだよ。暴れたい放題暴れてるって感じ』
「でも、聖女の座にはカティア様が就いているはずじゃあ……」
『あのな、アーシャ。聖女っていうのは誰でもなれるわけじゃないんだよ。その資質の無い奴を「こいつが聖女です!」って言われても、精霊たちにとっては意味ないんだ』
『もともとこの地は数多の精霊が住まう、人間が暮らすのには少々厳しい環境の場所ですからね。聖女が不在になったことでまた元に戻ってしまったということなのでしょう』
「そんな……」
カティアはアーシャよりもよほど聖女にふさわしいはずではなかったのか……?
アーシャはしばしの間呆然としていたが、深呼吸して再び足を踏み出す。
この森の中でさえ、魔王領へ向かうために通った時とは違い、激しく木々が薙ぎ倒されている箇所がいくつもあった。
ウィンディアは「風の精霊たちがやんちゃしているのですわ」と言っていたが、もしも同じようなことが国内全域で起こっているのだとしたら……それこそ大惨事だ。
(セルマン殿下に伝えなきゃ。正しく、聖女の資質を持つ者をその座に据えなきゃいけないって……!)
どうか話を聞いてもらえますように……と祈りながら、アーシャは足を速めた。




