58 翻弄されっぱなしです
慌てて顔を隠し拭おうとすると、ぱしりと手首を掴まれる。
「魔王様……?」
見れば、ルキアスはいつになく真剣な表情でアーシャを見つめていた。
そのまま、ゆっくりと彼の顔が近づいて来て、そして……。
「……失礼いたします、陛下」
急に第三者の声が二人の間を通り抜け、驚きにアーシャは飛び上がってしまった。
「うひゃあ!?」
「おっと」
すぐにルキアスに抱き寄せられことなきを得たが、もう少しで魔王城の尖塔から真っ逆さまに転落するところだった。
バクバクと心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、アーシャはギギギ……と壊れかけの人形のような動きで声の方へと振り返る。
そこには、四天王の一人――ファズマがどこか呆れたような、じっとりとした視線でこちらを見ていたのだ。
「ファファファ……ファズマさん!?」
「変な笑い方みたいになっておりますよ、聖女様、いえ、それよりも陛下。少し問題が発生しました。至急執務室にお戻りください」
「わかった」
ルキアスは存外素直に頷くと、まだ転落未遂の余波でがくがくと足を震わせるアーシャの頭を撫で、顔を近づけ囁いた。
「済まないな、聖女殿。もう少し君とゆっくり過ごしたかったが……そうもいかないようだ」
「ぜ、ぜぜん! 私は大丈夫ですから!」
舌をもつれさせながら、真っ赤になってアーシャはそう絞り出す。
ルキアスはくすりと笑うと、傍らで気まずそうにしているファズマに指示を出す。
「ファズマ、聖女殿が落ち着いたら下に送ってやってくれ」
「御意」
「それでは聖女殿。存分にこの良き日を満喫してくれ」
「は、はいっ!」
ひっくり返りそうな声でそう返事をしたアーシャを一瞥すると、彼は軽い足取りで尖塔から飛び降りた。
慌ててアーシャが下を覗くと、開いた窓から優雅に城内に乗り込んでいくルキアスの姿が見えた。
「はぁ……」
まったく、何から何まで彼に翻弄されっぱなしだ。
ずるずるとその場に座り込み、厚い吐息を漏らすアーシャに、ファズマが呆れたような目を向ける。
「まったく、変なところで肝が据わっているかと思えば、急にふにゃふにゃになって……本当におかしな方ですね、あなたは」
「そうですか……? あっ、そういえばファズマさん、ご家族の方には会えましたか?」
「べ、別にあなたには関係ないでしょう!?」
以前世話になった彼の家族も、この収穫祭に招待をしている。
ファズマは忙しくしているので無事に会えたのかどうか尋ねると、彼は急に照れたようにぷいっとそっぽを向いてしまった。
だが、その拍子に翻った彼の服の裾から……かすかにあの暖かな渓谷の家の匂いがした。
(よかった、ちゃんとご家族に会えたんですね)
あのやんちゃな弟妹たちが、憧れの長兄にじゃれついたのだろうか。
そんな光景を想像してにやにやするアーシャに、ファズマは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「ほら、気が済んだなら降りますよ」
彼が指笛を吹くとすぐに、どこからかドラゴンが現れた。
どうやら初めてこの地にやって来た時のように、ドラゴンの背に乗せてくれるようだ。
「ありがとうございます、ファズマさん。お忙しいのにすみません……。あっ、そういえばファズマさん以外の四天王の方はどうされてるんですか? そう言えば私、一度もお会いしたことがないような……」
「いませんよ」
「えっ?」
「慣習に習って『四天王』と呼称していますが、人手不足で実際は私一人しかいません」
「えぇぇっ!?」
まさかの情報に、アーシャは驚いてしまった。
いつも彼は忙しくしていると思っていたが、まさか四人いると思っていた四天王が一人しかいないとは。
「なんかそれ……四天王って言うかもはや唯一王ですね」
「はいはい、くだらないこと言ってないで早く乗ってください」
「はぁい」
ファズマに促され、アーシャはドラゴンの背に乗った。
滑らかな鱗をさすさすしていると、ドラゴンが嬉しそうに喉を鳴らす。
調子に乗ってアーシャがあちこちを撫でまわしていると、不意にファズマが何か言いたげにじっとこちらを見ているのに気が付いた。
「ファズマさん? どうかしましたか?」
「聖女様、あなたは……」
「……?」
首をかしげるアーシャに、ファズマは逡巡した後……何でもないとでもいうように首を横に振って見せた。
「いえ、なんでもありません。落ちないように掴まっていてください」
「はぁい」
ドラゴンが宙を滑るように滑空を始め、アーシャはわくわくと目を輝かせた。
地上が近づくにつれ、美味しそうな匂いや周囲の熱気が直に伝わってくる。
こちらに気づいて手を振りながら走ってくるプリムが見え、アーシャも勢いよく手を振り返した。




