35 なぜだか胸がむかむかします
しかしながら、アーシャが曲がりなりにも「魔王の私室で一晩を過ごした」という事実は、それなりに魔王城を騒がせたようだ。
《うおぉぉぉぉ! 俺が付いていながら、すまねぇアーシャ! お前を魔王から守れなかった不甲斐ない俺を殴ってくれ!》
「いやいや、だから何もなかったって百回くらい言ったじゃないですか」
足元でオイオイと泣いている火の精霊フレアを慰めながら、アーシャは嘆息した。
《ちらっと城内まわって来たけどさぁ、もうアーシャが世継ぎを産んだら人間との混血だけど次の魔王として認めるか……みたいに議論されてたよ》
「え」
意気揚々と水の精霊アクアが報告してきた内容に、アーシャは戦慄した。
当のルキアスからはまさしく抱き枕扱いしかされていないというのに、どうやら周囲はどんどんと話を飛躍させているようだ。
「皆さん、気が早いんですね……」
《アーシャ、周りが何と言おうとアーシャがそれに振り回される必要はありませんわ》
「えぇ、もちろんです。……これはあくまで、契約としての婚約でしかないんですから」
ルキアスはアーシャのことを抱き枕……よくて子ども扱いだ。
婚約者という地位を与えられているのも、アーシャがある程度自由に動けるように計らってくれただけなのだ。
周囲の魔族が噂するように、世継ぎがうんぬんなどとは遠い話である。
(私はあくまで、聖女の力を必要とされているだけ。お妃様はもっと別にふさわしい方がいるはずだよね……)
ここに来て以来、アーシャは幾人かの女性の魔族を目にしたことがある。
皆アーシャから見れば羨ましいほど豊満なスタイルを有し、煽情的な衣装を惜しげもなく身に纏っていた。
あれが、きっと魔族のスタンダードなのだ。
アーシャでさえも、彼女たちの見事な曲線美にはついつい目を奪われてしまう。
ルキアスもアーシャみたいな貧相な人間ではなく、彼女たちのようなタイプを好んでいるはずで……。
(うっ、そう考えるとちょっとむかむかする……何で?)
別にルキアスがどんな相手を選ぼうがアーシャに口出しする権利はないのだが……。
あのように抱き枕扱いを受けた後だと、ほんの少しだけ自尊心が傷つくのである。
(別にいいんだけど。別に……!)
胸のむかむかを癒そうと、アーシャは手近にいたモフクマを抱き上げ、ぎゅぎゅっとアニマルセラピーを満喫するのだった。
◇◇◇
その日、アーシャはいつものように魔王城に連れてきたダイアウルフに餌をやっていた。
「よしよーし、ポチはいい子ですね~」
「クゥン」
(周りには反対されたが)ポチと名付けたダイアウルフは、嬉しそうに尻尾を振ってがつがつと餌を食べている。
近頃は農場に向かうのにポチに騎乗しており、アーシャが尻の痛みに悩まされることもなくなった。
ポチのふわふわの毛を撫でながら、アーシャはくすりと笑う。
「ご飯を食べたら見回りも兼ねて散歩に行きましょうか」
「わふ!」
門番のケルベロスはまだ育休から復帰していない。誰に命じられたわけではないが、アーシャは自主的に魔王城の見回りをするようにしていた。
(自分の身を守る力がある魔族の皆さんはともかく、モフクマが誘拐されちゃったら大変ですからね)
いつぞやに自分があっさり誘拐されたことは棚に上げ、アーシャはきりっと背筋を伸ばして城内外の巡回を始めた。
ここに来た当初、アーシャに向けられる視線はいちように異分子を見る目だった。
今もそう変わらないのだが、中にはこちらに向かって深々と頭を下げるものも現れ始め、アーシャの良心がズキズキと痛んだ。
(うっ、これ絶対私と魔王様の関係を誤解してますよね……)
彼らは別にアーシャ本人を認めたわけではなく、魔王ルキアスがアーシャを寵愛していると勘違いしているだけなのだ。
彼らにとってはアーシャは未来の魔王妃確実なので、今から尻尾を振っておこうということなのだろう。
妃どころか抱き枕でしかないアーシャからすれば「変な誤解させてすみません」とこちらの方から頭を下げたい思いでいっぱいだ。
(どうか、次のお妃様にもそうやって優しくしてあげてくださいね……)
心の中でそう彼らに謝りつつ、アーシャはポチを連れて颯爽と魔王城を進む。
各所で遊んだり仕事したりしているモフクマを撫で、ファズマの目を盗んで厩舎の魔獣と戯れ、魔王城についてきてくれたベビースライムをぽよぽよしつつ、城門に差し掛かった時だった。
いつものようにセキュリティ意識の薄い無人の城門の向こうに、アーシャは幾人かの人影を見つけた。
(あれ、お客さん……?)
魔王城に用がある者ならば、取り次がねば。
そんな使命感にかられ、アーシャは小走りで城門へと近づく。
やがて城門の向こうの客人の姿がはっきりと見え、アーシャは思わず足を止めてしまった。




