第二話 出会い 巻の壱
広い神社の敷地へ学生服を着た少年たちが入ってきた。
彼ら三人は漏れなく目の下に不健康そうな隈があり、何を隠そうゴロ・ハカセ・メタローが変化したその姿であった。
分かり易く長ランに恰幅の良い身体、楊枝の様な葉っぱを咥えたガキ大将がゴロ。
分かり易くぐるぐる模様の眼鏡をかけ、白衣を纏ったのがハカセ。
分かり易く前髪で片目を隠して学ランの前を開け、小さい筒のネックレスをかけたのがメタローであった。
やがて階段を上がっていき鳥居をくぐると、即座にゴロは鼻を利かせ始めた。
「お! やってるやってる!」
まだ来るには早かったのか流石にそんなに沢山開いているわけではないが、そこは店側も分かっているようで、既にいくつか開いている屋台があった。ゴロは勿論端から全部回るつもりの様で、迷わず一番前にあったベビーカステラの屋台へ向かうと店主のおじさんへ声をかけた。
「流石にお釣りを受け取るのは悪いからちょうど千円になるように考えて買うわ!」
ゴロはこちらに向けて笑い、躊躇う素振りもなく財布から紙幣の形に切られた葉っぱを取り出すと、おじさんは疑問を持たずにそれを受け取って大盛りのベビーカステラを紙袋へ詰め始めた。ハカセの方を見ると眼鏡を光らせ笑っており、注意する様子はない。メタローはやれやれと溜息を吐き、一人で周囲を見て回ってこようと歩き出した。
昔、狸はこうやって悪気なく人間を騙すことがよくあった。
しなくなったのは、理由がある。
例えば、25年ほど前には『平成の世における住宅開発で人間が環境を変え始めたことに抵抗した狸たちが〈化学〉を駆使するも完全敗北を喫し、最早人間の行いは神や仏と同じ所業で畜生では敵わないと諦めた』映画があったが、アレは狸社会においては正しく衝撃的な歴史的資料とされている。もちろん多少の脚色を前提と考えられた上でドキュメンタリーに近い作品として評価されており、実際、狸たちの中では都市開発で人間との力関係は認められ、以降、狸教育も新世代向けに変わっていった。
元々、狸が雑食で人間の食文化が非常に合っていたことや変化さえ使えれば人間に馴染んだ生活が出来ることもあり、端的に言えば人間に服従することが出来る生物だったのである。それから人間は神様仏様に続いて人間様という扱いを受け、一部にある種過剰に人間を崇める様な狸も生んだ。
要するに、人間様を騙すなんてことは今ではあまり見られないどころか、独特の反発心を持つ者ぐらいしかすることではない。
厳密に言えば、ゴロは人間に対すると言うより、過剰な人間信仰に対しての反発心があるタイプなのだが……実際、過激派に良いイメージのないメタローとしてはゴロの考え方を否定することも出来なかった。そこまで考えたところでメタローがもう一度溜息を吐くと、そのタイミングを見計らったかの様に小さな悪意を感じ取ることが出来た。その方向は少し屋台から離れた木の下であり、人間の子供たちが集まって何かを囲んでいた。
「やん坊、たぁ坊! 逃がすなよ!」
「わかってるよ、まぁ坊!」
ニヤニヤする子供たちの手には、当たれば痛いのが誰にでも分かるはずの大きめな石が見えた。何かにぶつける目的ならば、子供にしては物騒だと思える。いや、それが出来てしまう残酷さは子供故か。人間様な上、子供の問題……いやしかし、流石に怪我人が出るようなことは見て見ぬふりは出来ない。メタローは子供たちへと近づき、石ごと手を掴んだ。
「待て」
その声で子供たちは一斉に驚くと、囲いの陣形が崩れた。メタローはその隙に素早く三人の子供から石を奪い、彼らの目線の先を確認するとそこに居た何かもこちらへと顔を上げ……目が合った。瞬間、メタローは動揺し思考が止まる。
そこにいたのは人間で言えば5歳にも満たない小さい子狐であった。
狐。
途端、メタローが脊髄反射で感じたものは、泥の様に心に纏わりつき身体に染み込んでいる、その種族への嫌悪感だった。
後付けの正義感や善意よりも優先されたその感情に対し、メタローは「こんなものが自分の中にあったのか、それとも今生まれたのか」それを迷うほどの生々しさに、手に持った石を武器として投擲する選択肢までもが脳裏を過ぎる。
──助けに入らず、見捨てるべきだったか。
そんな考えは数秒で脳内から打ち消されるが、一瞬でも考えた自分が確かにいるのだと恐ろしくなる。こういう時は一度考えるのをやめた方が良い。思考を強制的にシャットダウンすると、深呼吸をする。
──静まれ。落ち着け。俯瞰しろ。
メタローはゆっくりと目を開けて子供たちの様子を確認する。
すると彼らはこの隈の濃い男から感じる形容しがたい怪しさに、
「知らない大人だ!」
「なんだよ!」
「まだやってねえぞ!」
彼らは一様に冷や汗を垂らして言い訳を始めた。
──成程、相手が悪いのが明らかな場合は自分から何か言うより、黙ってみていた方が良いのかもしれない。初めて目つきが悪いことで得をしたな。
などと考えながらメタローは自嘲的に笑うと胸のネックレスを握った。
そして足元から影が伸びると子供たちのそれと繋がり、じわじわと侵食が始まる。
応用妖術、心震。
言葉や心理を用いるメタローの得意な術であり、ただの人間の子供に耐えられるそれではない。
「不良かよ!なんか言えよ!」
「そんな目しても怖くないぞ!」
子供たちはメタローを睨んで強がるが、彼らの影は頭を抱えて震え今にも泣き叫ぼうとしている。
「う、うわぁああーーー!!!」
遂に耐えられなくなったのか、一番小さいやん坊が泣き始めた。
残りの二人も限界が来たようで一番大きいまぁ坊が勇気を振り絞った顔でこちらを睨むと、
「良い気になるなよ!」
捨て台詞を吐き、三人は去っていく。そこにはメタローと子狐だけが残された。
さて……。助けてしまったが、小さくても狐だ。
先ほど過剰なほど感じた悪感情は忘れるにしても狐は得体が知れない。信頼が出来ない。何を探られているか分からない。隙を見せるわけにはいかない。でも助けてしまった。というか、今は試合の時間だろう。観戦以外でここに来るほど狐の里はそんなに近いとも思えない。では、何故ここに。
そんな思考の海に沈み始めたメタローだったが、すぐに少女の声で引き戻されることになる。
「アオイ! こんなとこに……」
そこに現れたのは髪に編み込みと赤いリボンをしたセーラー服の少女であった。
中学生ぐらいに見えるその少女が子狐の元へ駆け寄り、手を差し伸べると、子狐は少女の肩へ登り、彼女へ耳打ちをした。
少女は頷いてメタローへ向き直って頭を下げた。
「あの、有難うございます」
こういう育ちの良さのある子は狸には少ない。狸には大抵おおらかで肝っ玉母さんの様な気の強い女性が多いんだよな、と一人で苦笑いするメタローをよそに、少女は言葉を続けた。
「私、アカネです。この子はアオイ。助けて頂いたみたいで、なんてお礼をしたら良いでしょう。どうかお名前を……」
自発的にしたものだし、そんなに感謝されることもない。しかし名乗らずに消える方が失礼か。メタローは恐る恐る思考を巡らせる。
その間にも、アカネと名乗った少女はメタローの言葉をちゃんと待ってくれている。この対応一つとっても、やはり人間は素晴らしい。
それなら躊躇うことはないとメタローはボソッと呟いた。
「メタローと、呼ばれてる」
「呼ばれてる?」
アカネに不思議そうに聞き返されるが、言い訳のしようがないのでメタローは頬をかいて誤魔化した。
というのも狸の名前というのはそういうもので、ちゃんと名付けられるというよりは見た目やエピソードを基に呼ばれ始めるからであった。
そうしてやり取りがひと段落するとメタローは「そもそもなんでこの子は狐を探していたんだろうか」という疑問が浮かんだ。
「君……」
一応念の為──
「あなた……」
その時、アカネも同様に、感じていた違和感を裏付けるメタローの隈に気付き、念の為──
双方お互いに素振りを出さないようにしながら鼻を効かせる。
すると、お互いの頭の中には同じものが浮かんできた。
──狸みたいにふわふわで、やわらかくて、焼き目はこんがりきつね色で、甘くて良い匂い。これはなんだろう。最近嗅いだ匂い。これは……ベビーカステラ……?
お互い、同族からは、そして知っている動物からはカステラの匂いがしないのは流石に分かっている。ならばこれは人間の匂いだろうか。人間の匂いがカステラに似ているのだろうか。
──俺と出会ったこの子は、
──私と出会ったこの人は、
──人間様なのだろうか。
──この出会いは、そんなに甘いのだろうか。
匂いに包まれ重なっていた二人の世界を割いたのは、聞き覚えのある声だった。
「おい! 俺たちが抜けたの、旦那にバレたってよ!」
そこにいたのは疲れた表情でびしょびしょに汗をかいたゴロと、携帯端末を片手に澄ました顔のハカセであった。
ぬら、つまりぬらりひょんの旦那にバレたということは……恐らく向こうは滅茶苦茶だろう。謝るのが遅くなるほど説教は長くなる。だから二人は急いでメタローを探しに来たというわけだ。
ハカセはすぐに察したのか軽くアカネに軽く頭を下げると、
「ごめんねー、ちょっと用事で。多分夜……うん、七時ぐらいにはまた会えるからだろうからさ!」
そう言うと、メタローを手招きした。
メタローは一瞬躊躇いながらも、アカネに頭を下げた。
「また今夜」
メタローが二匹の元へ小走りで合流すると、三匹は早歩きで急ぎながら、しかしお互いに悪ふざけをするのを忘れずに、神社の敷地から離れていった。
一方、アカネは三匹を見送りながら安堵の息を吐いた。すると髪の一部が狐の耳に変わりかける。アカネはすかさず手でそれを隠すと、
「また今夜……」
顔を覗く妹狐に照れ笑いを向けた。