「彼の心は。」
義父さんの言いつけ通り先に休む事にした僕は義父さんの寝室に入って来た。居間にある籠を卒業してからはずっと義父さんと二人で眠っている。
暗い部屋の中、カーテン越しに差し込む月明かりを頼りにベッドまで近付く。そしてベッドの上へヨイショとよじ登ると僕は義父さん達が来るのを待った。
掛布に潜り枕に頭を乗せる前にちり紙で思い切り鼻を噛む。鼻が通るようになると此処に来る前に歯磨きで使ったペパーミントの香りがした。
泣き過ぎで瞼も頭もぼや〜っと重たいし鳴咽のし過ぎで肺も心臓も泳いだ後みたいに疲れていた。だけど義父さん達が来るまでは起きていようと思った。
まだちゃんと彼に謝っていない……
泣き止んだ状態でしっかり謝りたいと思った僕はゆっくり深呼吸して息が整うのを待っていた。
そうして何分経っただろうかーーガチャっと控えめな音がして扉から義父さんが姿を現した。
義父さん達が来た!
今度こそちゃんと謝らないと。
そう思い枕から頭を起こすも義父さんの側には彼の姿が見えない。
あれ?居ない……?
不思議に思い、小首を傾げるとそれに気付いた義父さんがベッドへ近付き、僕の頭を撫でた。
「インディルは別の部屋を使う事になったんだ。彼は体格もあるし自分の部屋が欲しくなる年頃だろう?
今日すぐにもう一台ベッドフレームを用意は出来なかったから今日は此方で寝ようと誘ったんだがね……
流石に断られたよ」
義父さんの説明を聞きながら僕はその言葉に酷く落ち込んでいる自分に気付いた。
確かに家に来て早々、しかもまだお互い知り合ったばかりの状態で寝床を共にするのは抵抗があるだろうと簡単に想像が付く筈なのに。
僕は勝手に彼も一緒に眠るのだと決め付けていた。それは彼に対して親近感を感じていたからかもしれない。
彼に見つめられた時…あの眼がそう感じさせた。
彼の荒んだ色をした眼差しを見た時、あぁ彼は今、彼の中の地獄を彷徨っているのだと思ったのだ。
ーー昔の僕がそうだったから。
ひたすら孤独で遣る瀬無くて無力感に蝕まれるあの感覚。
自分を終わらせたいと只願う、無気力な眼だ。
ーーそれを思い出した時には、僕の身体は勝手に動き出していた。
「ノア」
義父さんが呼び掛けてくるが本気で止める気がないのは分かっていた。
「義父さん、僕今夜はあの人と一緒に居るよ。……お兄ちゃんを家族にしてくれて、ありがとう」
そう言い義父さんに振り返った僕の瞳は濡れていた。
◇◇◇◇◇
子供一人で過ごすには広い部屋の中、インディルはマットレスに身を横たえ只ぼぅっと天井を見つめていた。
今日一日の出来事がぐるぐると頭の中を巡っていてとても眠れる気がしなかったし、未だ胸の中をぽっかりと大きな穴が空いたような感覚が彼を蝕んでいた。
ーーあの日からずっとだ。幼い心はそれに耐え切れず叫びを上げ続けていた。
怒りなのか悲しみなのか、絶望なのかも幼い彼にはハッキリとは分からなかった。
けれどこれだけは分かっていた。
ーーー自分は独りなのだと。
そこまで考え、目の前が揺らぎ出す。
涙の膜が剥がれ落ちる前に彼は腕で乱暴に目元を擦った。
泣いたら、認めてしまうような気がして。
自分は捨てられたのだと、家族だと思っていた人達は自分を疎ましく思っているのだと実感してしまう気がして。
叶う事のない望みに縋るように彼は只耐え続けていた。
ーーだけど。
だけど、今日は少しだけ救われた気がした。
孤立していた教会に自分を引き取りたいとやって来た初老の男性。
思慮深そうな落ち着いた鳶色の瞳で目線を合わせると深い落ち着いた声で話してくれた。
ーー養子にならないか。家族にならないか、と。
あの人なら信じられる気がしたのだ。
教会にやって来る子供の親達のように恐怖に染まった目も、遠くから疎ましがる目もしていなかったから。
真っ直ぐに此方を見つめていたあの人なら…自分の話を聞いてくれるかもしれない。
自分をちゃんと見てくれるかもしれない。と…
そして実際にあの人は自分の話を聞いてくれた。
彼の養子だというノアという子も自分より幼いながらしっかり者で優しい性格をしているのだと、すぐに分かった。
それに…ノアを一眼見た時、何故だか胸が苦しくなり無性に触れたくなったのだ。
もっと言えば抱き締めてその温もりを感じたかったし自分に声を掛けて欲しくて仕方なかった。
自分をその瞳に写してくれた時は酷く気分が高揚してしまって、上手く話せなかった。
ーー自分の中の何かがこの子だと伝えていた。
何でそう思ったのかも分からないし、ノアが自分にとっての何なのかも分からなかった。
ただ笑顔で話しをしてくれるその姿がとても綺麗に見えて。その綺麗な手を自分なんかで汚したくなくて、咄嗟に差し出された手を払ってしまった。
それでも笑い掛けてくれる事に酷く喜んでいる自分が居て。
救われた気で居たのだ。居場所が出来たのだと。
けれどあの子をーーノアを泣かせてしまった時、自身の失敗を悟った。
あぁ、俺はまた人を傷付けて嫌われるのだと。
折角自分の話を聞いてくれそうな人に出会えたのに、また手を離されるのだと考えて。
その時の絶望と諦めに支配される胸の痛みは思い出したくもない。
またあの痛みを味わうのかと、また独りになるのかと頭が真っ白になった。それが優しいあの子だったから余計に。
ーー哀しそうな匂いがしたから、離れて行ってしまうような、そんな匂いがしたから縋るように引き留めた。
優しい子なのに、こんな自分にも心を傾けてくれる子なのに哀しい匂いに包まれているのが嫌で。
笑って欲しくて手を繋いだのに。
…自分の所為で泣かせてしまった。
ぽろぽろと涙を流し続ける小さな姿になんて言ったら泣き止んでくれるのか、どうしたら笑ってくれるのかと混乱しながらもどうにか言葉を紡いで。
抱き締めても全然泣き止まなくて小さいのに必死に訴えてくる声に胸が苦しくなって。
ーー拒絶される前に自分からあの人に言った。
けれど予想に反してあの人は自分を責めなくて……自分の話を聞こうとしてくれて……全てを話した。
全てを聞いて、家族になれて嬉しいと言ってくれたあの人の想いに報いたい。
家族にさせてくれたグレイヴスさんとちゃんと家族になりたい。
そう、強く思った。
そしてもう一人の家族とも……
あの子にーーノアにちゃんと謝れるといいな。
ーーそう思うインディルの耳に扉の開く音が届いた。