「幸運の遭遇と、火灯し森の王。」
アイビーラビットを刺激しないようにエミ達にこそこそと話すと一番後ろに居たハインツさんが感心したように顔を巡らせた。
義兄の眼が優れているから気付けたけれど、僕にも見えている事に驚いているようだ。
加護についてバレやしないかと内心ヒヤリとしたが、ハインツさんは何も言わずにこのまま北上するように、とハンドサインを出した。
下手に近付いてアイビーラビットを刺激してしまったらすぐ逃げられてしまうだろう。
見習い達に貴重な体験をさせてあげたいという意図を感じて僕は嬉しくなった。
大きな音を立てないように、警戒しつつもアイビーラビットがついて来ているかチラチラと伺う。始めは見えていなかったエミ達も時折遠くで動く薮の動きに気付いたようだ。
あ、と声を上げそうになったエミの頭を慌ててジャックが前へ向けた。口を開けたままのエミと目が合いそのまま声を立てないように笑い合う。
先頭を行くヴァイスデーゲンも僕達の嬉しそうな雰囲気が伝わったのか、長い尾を揺らしてご機嫌そうにしていた。
途中、木々の間を縫う糸のように流れる細い小川も幾つか見つけてヴァイスデーゲンに水を飲ませる為に立ち止まる事があった。
木の茂った場所ではヒルマドイの葉が小川に落ちている場所もあり、川底に沈んだ木の葉が冷たい水に晒されて淡く発光しているのが見える。
細く透明な水流越しに灯る葉が綺麗で、身体の疲れも忘れて暫し見入ってしまった。
しゃがんで見つめている僕の顔がゆらゆら形を変えながら水面に反射している。
義兄と似た茶髪と茶色の瞳を持つ子供が一瞬、黒髪黒目の日本人に見えた気がして僕は顔を離した。哀しみに包まれた固い表情をしていたのが頭から離れない。
するとヴァイスデーゲンがブルル、と鳴きながら近づいて来て顔を寄せてくれた。
聖霊の皆んなと同様、心配してくれているのが伝わって僕はその鼻面を優しく撫でる。
今、側に寄り添う事の出来ない聖霊の皆んなに向けて大丈夫、と心の中で囁いた。
森の恵みと共に恐ろしい危険が付きものである樹海でも嬉しい事は度々訪れるものだ。
何度目かの小川に差し掛かった頃、虹ヤモリという魔物と遭遇した。
水の魔力を豊富に蓄えるこの魔物は髪の毛と髭を生やしたヤモリの姿をしており、虹色の鱗に包まれている。
普段は沼に生息しているが、大人の上腕程はあるその個体はまだ若いものらしく、この先の沼地から流れ着いて来てしまったようだ。
討伐の推奨ランクは菖蒲級。
水の魔法を操り対抗してくるのと大きな個体は接近すれば踏み潰される危険があるが、そもそも沼の底に居て滅多に地表へ上がって来ないので戦闘経験のある冒険者はそれ程多くない。
見習いの身で生きている姿を目にする事は殆どない存在なので、とても貴重な遭遇だった。
目の前のイピリアは虹色に煌めく頭を擡げて今にも襲いかかって来そうだ。
僕達に後退指示を出したイライザさんが前へ進み、僕達とイピリアの間に立ちはだかる。
イライザさんの長いヴェール越しに見えた戦闘は一瞬だった。
鋭い水砲を飛ばして来たイピリアに対してイライザさんは地面から土壁を生み出して防ぐ。
守護の加護を選択しなかったのは土壁が水を吸収して泥を形成したからだ。
ぐずぐすに溶けた泥がイピリアの方へ迫る。
避けようとした虹色の魔物は、先に展開していた守護の加護に阻まれ退路を失う。
そのまま泥に全身を囚われた魔物の心臓に守護の加護を細くした壁を突き刺し戦闘は終了した。
直ぐに泥を取り除き、放血とモツ抜きをして清める。
イピリアという魔物は髪も鱗も有効な素材として高く取引されるので今回の遭遇は本当に幸運だった。
戦闘に怯えてアイビーラビットが逃げてしまったかもと考えたが、勇敢なのか幸いにも遠くから様子を伺っていて離れる事はなかった。
朝に出立してから約三時間が経過した。
途中水分補給や位置確認の為に立ち止まっては居たものの予定通りの行進ペースを保って僕達は進んでいる。
隆起した自然の土地は足腰に負担を掛けてきて痛むし、背負った鞄の紐が肩に食い込むように感じるけれど、僕達は根を上げる事なくひたすら先頭を行くイライザさん達を追う。
あれからもう一羽のアイビーラビットが一緒について来たりと嬉しい展開はあったのだが、ペリュトンのマーキングがされたヒルマドイを見つけて進路を少し逸れたのが原因か、それ以上近寄って来なくなってしまった。
森の終わりまで来ると僕の目にも追えなくなり、「まだ見える?見える?」と義兄へしきりに確認していた。
ついては来ていると言葉が返って来たので、僕はこのまま一緒に来てくれますように。と小さく小さく幸運の加護を掛けた。
──予定通りお昼前には光の森の終着点へと辿り着いた。
ヒルマドイの木が示し合わせたように横一列に並ぶ森の境界線。一変して苔むした木々と地面が彩るその先は浅層の中央部、火灯し森と呼ばれていた。
ここは大小様々な泉を内包した湿地帯であり、緑に隠れた沼が至る所に点在している。
幻想的な緑に覆われた直ぐ下には、足を取られるとあっという間に沈んでしまう沼が罠のように広がっている。
「ここからはまた北西に進路を変える予定だが、沼を一つ迂回する必要が出て来る。
泉の間を通り抜けるルートになるから足を取られないように気を付けろ」
ハインツさんの言葉に皆んなしっかりと頷く。
この辺りから水蛇や水棲の魔物も見られるらしい。滑り落ちたら格好の獲物になってしまう。
流石にここでは道幅が狭いからとイライザさんはヴァイスデーゲンから降りて歩き始めた。
迷いなく滑らかに進むイライザさんの後を追いながら僕達は説明を受ける。
「小さな浮き草が多くて判り辛いだろうけど、その先は泉だよ。
始めは見分けが付かないだろうが、よく見れば違いが分かる筈だ。
苔も水気を含んで滑りやすくなっているから踵からしっかり足を着けて歩いた方が良い」
そう言い、イライザさんは足跡を辿る僕達のすぐ右側を指差す。
よく見れば水草が水平に生えている箇所が見えるのでそこの下が泉だろう。
苔むした地面にも時折獣の足跡や糞が見られるので、それを目印に進めば足元の確かなルートを進めると説明を受ける。
湧き水が確認出来れば、ミネラルを含んだ真水も手に入るそうだ。
義兄はこんな時も優れた五感を活かして迷いなく前へ進んでいる。
僅かな緑の濃淡や葉の形、獣の通り道に残された痕跡を見つけてはイライザさんと確認し合ってルートを決めてくれている。
長い足としなやかな体を活かしてズンズンと前へ進んで行く。
まるで森の中で昔から暮らしていたかのように足取りに迷いがなかった。
始めは慣れない足場に恐る恐る前へ進んでいた僕達もルートの見分け方を段々と覚え、イライザさん達の見ている景色が分かるようになった。
確かに、所々に獣や魔物の痕跡が散り、泉に浸っている苔や木々は水分をたっぷりと含み、色が変わっているのが分かる。微妙な濃淡で水と地の境界線が浮かび上がっていた。
暫く進めば完全に獣道と分かる凹みが細く続いているのが見え、その頃には僕達は通りやすいその上を迷う事なく進んでいた。
そうすると周りの景色を楽しむ余裕が出て来る。
近くに鳥の鳴き声も聞こえ、今は魔物の脅威も水底から現れないようだ。
この光景をしっかり目に収めておきたいと感じた僕は、正午の陽が明るく照らす中をぐるり、と見渡した。
辺り一面苔に覆われた地面はふかふかしていて歩く度に足が少し沈む心地がする。
あちこちから湧き出る泉の合間を縫うのは時を経て代替わりを終えた倒木で、泉の淵に転がる岩も倒木さえも苔に覆われていて何処を見渡しても鮮やかな緑一色だ。
木々の葉と、苔と、それらの反射する水面とで幾つもの緑が複雑な濃淡を描きながら調和している。
静かに横たわる倒木はその命を終えた後も緑の橋となって訪れた獣や人の通り道になっているらしい。幾度も生き物が通い、僅かに凹んだ獣道は一本のうねる道標となっていた。
こういう自然の道というのはワクワクする。
昔読んだ人工と自然の定義とは何か。という文の中に「人間が一度でも踏み込み、足跡を付けたのならそれは自然とは言えない」という意見が書かれていた。
極論とも言えるものだったけど、あれを書いた人はこの光景を見てどう思うだろうか?
僕は素晴らしい自然の一部だと思う。
少なくともこの光景は人と植物、獣と魔物が折り重なって出来た自然の営みそのものだ。
地上を行く魔物の気配がしない為、ハインツさんが背後から声を上げる。
「この先をもう少し行ったら休憩にしよう。
記憶のままなら倒木が連なった場所にそろそろ出る筈だ」
「あぁ、それならヴァイスデーゲンに探して貰うか。……さぁ、お行き」
その合図に泉の間を滑るように駆け出したヴァイスデーゲン。あっという間に姿が見えなくなってしまう。
僕達の足に合わせて大分ペースを落としてくれていたから良い気分転換になると良いな。
──程なくしてイライザさんがこっちだよ。と歩き始める。エミとジャックが困惑した声を上げたけれど、ヴァイスデーゲンと契約を結んでいるイライザさんは心の中で会話出来る。
どうやらヴァイスデーゲンが目的地を見つけたようだ。
僕も驚いた、とリアクションしながら後をついて行く。本当なら僕も聖霊の皆んなと離れていても意思疎通が出来るけど、イライザさんなら聖霊の気配に気付いちゃう可能性があるからね。
現状、意思の遣り取りは僕からの一方通行になってしまっているから皆んなと話せない事を寂しく感じる。
この遠征が終わったらまた一緒に過ごせるから頑張らないと。
そうして泉の間を抜けた少し先、陸地の範囲が多くなって来た所でハインツさんの言っていた倒木は現れた。
2本の巨木が寄り添うように横たわっていてその辺りだけ大きな木が生えてなく、ぽっかりと開いている。
天使の梯子が空から降り注ぎ、膝丈の若木と白く小さな花が苔むした地面に密集している。
寄り添う倒木を見守るように囲む木々の枝には魔栗鼠と霊鳥達が集まり、僕達を覗いているのが見える。
ヴァイスデーゲンはその中央で悠々と佇んでいた。
白い毛並みは光を反射し、淡い黄金色に染まっている。この森の頂点に立つ存在、そう言わしめる存在感を纏って僕達を待ち構えていた。
その光景に目を奪われて、暫し動けなくなってしまう。
語り継がれる物語の、神秘の光景がそこにはあった。
そして魔物達の様子を見て理解する。
正しくヴァイスデーゲンはこの森の支配者なのだ。
ここまでの道のりで獣はおろか、魔物さえ道を譲るかのように姿を見せなかった。この森の主がやって来た事を感じとり、ヴァイスデーゲンへ道を譲ったのだ。
生態系の頂点の一つに君臨する一角獣に。
気高い王の渡御を僕達は今、この目で見ている。古くから約束された絶対的な自然の只中で、ちっぽけな僕達は静かに立ち竦むしかなかった。




