16.二月のイベント
「海瑠、二月になにがあるか、あんた、もしかしてすっかり忘れてるんじゃない?」
台本を読んでいてお昼を忘れそうになった私を食堂に引きずって来た百合が、唐揚げ定食を食べながら言った。忘れているはずがない。二月と言えばバレンタインデーで劇団のイベントがある。
「ファンサービスでしょ?」
カレイの煮付け定食を食べながら私が答えると、百合は大仰に溜息をついた。
「ダーリンにチョコレートは?」
「あ……」
去年のバレンタイン前、私はデパートのバレンタインフェアに百合と行った。あのときのことは忘れもしない。人ごみにもみくちゃにされて、試食したチョコレートの味もよく分からなくて、ただひたすら疲れた思い出が頭を過る。
恐怖体験ともいえるバレンタインフェアを私は繰り返したくなかった。
「行かない! 今年は百合とバレンタインフェアに行かないからね!」
「海瑠のダーリンへの愛はそれくらいだったの!?」
「嫌! あれはもう嫌なの!」
ひとが多いし、パーソナルスペースにひとが入って来るし、試食で話しかけられるのも怖かったし、嫌な思い出しかないバレンタインフェア。今年も行けと言われても私は断固お断りだった。
「ダーリンへのチョコレートはどうするつもり?」
「通販じゃ、ダメかな?」
有名店のチョコレートの説明を読んで美味しそうなのを通販で届けてもらう。それが一番平和な気がしたのだが、百合はそれを許さなかった。
「海瑠、愛を試されているのよ!」
「えぇ!? バレンタインデーってそんなに過酷なイベントなわけ?」
それならやらなくても良いのではないかと思ってしまう私に、百合はもしゃもしゃと唐揚げを食べて飲み込んでから、箸を持ったまま拳を握った。
「ダーリンを愛しているんでしょう?」
「奏歌くんのことは大好きだけど……」
「行くわよ、バレンタインフェア!」
「百合が欲しいだけでしょう!」
ツッコミを入れると百合が「ちっ!」と舌打ちをした。
「海瑠も知恵をつけたわね……ダーリンと出会う前なら、騙されてたのに」
「やっぱり私はチョコレートを買うお財布なの!?」
二人で大声で話しているとトップスターの橘先輩が爆笑しながら近付いてきた。大笑いされても私は真剣なのだが。
「二人とも仲が良いね。海瑠ちゃん、チョコレートを買いに行くのかな? おすすめの穴場があるよ」
「本当ですか?」
「このお店」
教えてもらったのはケーキを売っているお店だった。フルーツがたっぷり乗っているケーキを見て、奏歌くんの笑顔が頭を過る。ケーキが美味しそうだと見ていると、橘先輩は携帯電話の画面をタップして、季節のお菓子のページを開いた。
そこにはチョコレートの缶が乗っていた。
「ここのナッツをコーティングしたチョコレートが美味しいんだ。ケーキがメインだから、ほとんど知られてないし」
「ありがとうございます!」
「私も行くからね!」
「百合は自分で買ってよね!」
身を乗り出して橘先輩の携帯電話を覗いてくる百合に、一緒に行ってくれるのは有難いが、お財布からは卒業しようと決めた私だった。
日持ちのするチョコレートのようなので、一月の終わりだったが稽古の帰りに寄って早速買いに行く。並んでいるぴかぴかのフルーツのケーキもとても美味しそうだ。
「断面見て! あんなにぎっしり苺が詰まってる」
タルト生地の中に苺が上下交互にびっしりと刺さっている苺のタルトには私も目を奪われた。百合に言われなくても、あれは今日のおやつとして奏歌くんと食べるために買うつもりだった。
チョコレートは悩んでしまう。
アーモンド、胡桃、カシューナッツ、黒豆と、色んなナッツがチョコレートに包まれている。
気になったのは黒豆を抹茶のチョコレートで包んだものだった。
「奏歌くん、抹茶のアイスが好きだもんね。これにしよう」
茉優ちゃんには胡桃をミルクチョコレートで包んだものを選んで、ケーキと一緒にお会計に持って行く。
「選べないわぁ」
百合は全種類買っていた。
初めてのお店だったが、先輩の紹介もあったし、百合がいてくれたので問題なく買い物ができた。
一安心で奏歌くんを学童保育にお迎えに行くと、なぜか沙紀ちゃんも学童保育の建物前の公園にいた。沙紀ちゃんは高校の制服を着ていて、スカートが短くて太ももが見えて、寒そうだった。
「沙紀ちゃん、こんにちは」
「あ、海瑠さん! 奏歌くんも」
奏歌くんを迎えに行ってから沙紀ちゃんに声をかけると、ぱっと顔を上げる。鼻が赤くなっていて、沙紀ちゃんは長時間公園にいたようで寒かっただろう。
自動販売機で温かなミルクティーを買って渡すと、手を温めるように両手で持っている。
「ありがとうございます。海瑠さんに聞きたいことがあって」
何の話だろう。
公演で話すのは寒いが、私は部屋に他人を入れるのをあまり好まない性質がある。どこか立ち寄ろうにも、今日はケーキを買ってしまっている。
「普通の人間を好きになったこと、ありますか?」
リップグロスの塗られた沙紀ちゃんの唇がわなないた気がした。
沙紀ちゃんは好きなひとができたのかもしれない。
「私はないかな」
婚約騒ぎもあったけれど、あのひとも私は別に好きなわけではなかった。奏歌くんに出会う前の私はぼーっとしていて深く考えなかったので、押しの強い相手に迫られて何となく頷いてしまっただけなのだ。
奏歌くんに出会ってはっきりと分かる。私が初めて恋をしたのは奏歌くんで、これが最後の恋になるであろうことが。
「そうですか……」
落ち込んでいる様子の沙紀ちゃんに何か言葉をかけたかったけれど、私は何も言うことができなかった。
「ふつうのにんげんだと、じゅみょうがちがうって、言うよね」
奏歌くんがぽつりと呟く。
「そうだよね……不毛な恋なのかな」
俯いてミルクティーのペットボトルを両手で持つ沙紀ちゃんに、奏歌くんが力強く言った。
「ぼくの母さんの母さん……お祖母ちゃんは、会ったことないけど、ふつうのにんげんとの間に母さんを産んだんだって。お祖母ちゃんはお祖父ちゃんとお別れしたみたいだけど、母さんは不幸じゃないよ」
美歌さんは幸せに暮らしている。
そのことを一生懸命伝える奏歌くんに沙紀ちゃんが顔を上げる。
「私が人間じゃないって言っても、理解してくれるかな?」
「こまったら、ぼくがきおくを消してあげる……悲しいけっかにならないのが一番だけど」
奏歌くんの励ましに沙紀ちゃんは心を決めたようだった。
ミルクティーのペットボトルを持ち上げて「ありがとう!」とお礼を言って走って行く。
その背中を私は見送ることしかできなかった。
部屋に戻ってから、奏歌くんに苺がぎっしり詰まったタルトをおやつに出す。ミルクティーを淹れて私が席に着くと、知らず知らずのうちにため息が出ていた。
疲労や悲しみや虚しさのため息ではなくて、幸福のため息。
「私も奏歌くんに出会わなかったら、沙紀ちゃんみたいに苦悩したのかもしれない」
沙紀ちゃんの姿は決して他人ごとではなかった。
奏歌くんと出会うことができたからこそ、私は将来に不安がなくなったのだが、出会わなければずっと孤独で、好きなひとができたとしても沙紀ちゃんのように告白するか決めかねていただろう。
「沙紀ちゃんもバレンタインデーにチョコレートを上げるのかな」
苺のタルトにフォークを刺しながら奏歌くんが呟く。
「上手くいくと良いけどね」
きっと最初は自分の正体を言えないだろう。
好きだと言って、お付き合いをして、お互いを知って行くうちに、正体を告げられるときがくるのかもしれない。私も奏歌くんに自分の正体を伝えるまでにかなりの時間がかかってしまった。
「上手くいかなかったら、ぼく、わすれさせるとか言っちゃった……」
「正体はすぐには言わないと思うけど、正体を明かした後で上手くいかなかったら、そのときは……」
そうならないことを願うしかないのだが、もしそうなってしまったら、人外であるということを知られるのはやはりリスクが大きい。奏歌くんに記憶を消してもらうのが一番だろう。
沙紀ちゃんの恋の行方はまだまだ分からない。
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