6.初めてのデート
すっきりと目覚めた休日の二日目。
炊飯器の早炊きボタンを押してくれた奏歌くんと二人で、炊飯器の前に正座して炊けるのを待っていた。
「はやだきだと、30ぷんくらいでたけるんだ」
「そうなんだ。早いね」
教えてもらってまた一つ学べた。
「中学で両親が事故で亡くなって、海香は脚本の仕事で忙しくて、私は友達も一人しかいなくて、寂しかった……でも、誰とでも仲良くなれるような性格じゃなかったし、私の何もできないところを見たらみんな離れて行っちゃったの」
「なにもできなくないよ! みちるさんはえんげきをがんばってたんでしょう? みちるさんのうたはものすごくすてきだよ!」
ご飯が炊ける間に話していると奏歌くんは物凄く私を褒めて慰めてくれる。真っすぐな言葉に嘘がないのを感じ取って私は胸がドキドキしてしまった。
ピーッという電子音が鳴って、お米が炊けた。
電気ケトルに水を入れて奏歌くんがお湯を沸かして、持ってきていたフリーズドライの味噌汁を私がお湯を注いで溶かす。
「おゆは、ひとりであつかっちゃいけないことになってるの」
「それなら任せて」
「ありがとう。みちるさん、すごいね!」
お湯を入れただけで奏歌くんは褒めてくれる。
サーモンサラダの上からサーモンを取って奏歌くんが白いご飯に乗せてサーモン丼にしてくれた。残ったサラダは別に食べることにして、お味噌汁とサーモン丼とサラダの朝ご飯を食べる。
「おしょうゆがあれば、もっとおいしかったかも」
「充分美味しいよ。奏歌くんと食べると何でも美味しい」
マリネされたサーモンはご飯にもよく合った。
食べ終わると洗った水筒に麦茶を注いで、稲荷寿司の重箱をリュックサックに入れて奏歌くんが出かける準備をする。
重箱は当然私が持つつもりでいたから、奏歌くんに持ってもらえることに驚いてしまった。
動物園に行く前にはやらなければいけないことがある。
女優なので日焼けを避けなければいけないのだ。日焼け止めを塗っていると奏歌くんも子ども用の日焼け止めを塗っていた。慣れていない様子なので首の後ろなどは手伝う。
私も襟足にかかる髪を退けて、奏歌くんに見てもらった。
「首の後ろちゃんと塗れてる?」
「しろいのがのこってる。のばしてあげるね」
つば広の帽子を被って、日除けの手袋とサングラスを付けた私を奏歌くんが見上げている。
「かっこいい……」
背中にリボンのついた薄紫のカットソーと黒のワイドパンツもお出かけ用のものだった。
初めてのデート。
そんな単語が浮かんで手を握る手袋が手汗で湿る気がする。
奏歌くんは初めて会ったときと同じ、おへそが見えそうな丈のセーラー襟のシャツを着て、ハーフパンツを履いて、靴下を履いて、マリンキャップを被っていた。
タクシーを呼んで動物園に行ったはいいが、券売機でのチケットの買い方が分からない。困っていると奏歌くんが助け舟を出してくれる。
「ぼくはほいくえんだからむりょうなんだ。みちるさんはおとなだから、400えんだよ」
「四百円……どこに入れるの?」
「ここにおかねをいれるあながあるでしょう?」
教えてもらってチケットは買えたけれど、大人として少し恥ずかしかった。奏歌くんは本当に何でも知っている。
「私、本当にこういうことしたことがなくて。自販機の飲み物も買えないの。大人なのに恥ずかしいわ」
「はじめてのときはみんなわからないよ。わからなかったら、すなおにおしえてもらえるのはえらいんだって、ほいくえんのせんせいもいってた」
恥ずかしがる私を奏歌くんは優しく受け止めてくれる。包容力を6歳の男の子に感じるなんて思わなかった。笑顔になると奏歌くんもにぱっと笑った。
手を繋いで門をくぐると、奏歌くんが園内の地図を持ってきてくれた。
「よくばってぜんぶみようとしたら、あつくてつかれちゃうから、みたいのだけにしよう」
「イルカはどこかな?」
ワクワクしながら言った私に奏歌くんが眉を下げる。
「イルカはどうぶつえんにはいないんだよ」
「え!? そうなの!?」
「イルカはすいぞくかん」
教えられるまで全く知らなかった私。
奏歌くんにイルカを見せてあげられると喜んでいたのが馬鹿みたいだ。奏歌くんもこれには呆れてしまっただろう。
「ごめんなさい、奏歌くんにイルカを見せてあげたかったの。動物園のことも水族館のことも知らなかった」
「じゃあ、つぎはすいぞくかんだね。つぎのたのしみができたよ」
落ち込む私に奏歌くんは明るく言ってくれる。少しも私を責めない奏歌くんに私は救われる思いだった。
「ほかにみたいどうぶつはいない? きょうはどうぶつえんをたのしもう!」
「そうね。私は……ライオンと象が見たいかな。奏歌くんは?」
「ぼくはペンギンとシロクマ」
二人で話し合って地図で場所を確かめる。入口の広場にあるペンギンのプールから、象の森を抜けて、肉食獣エリアでライオンを見て、最後にシロクマを見る計画が立った。
ペンギンのプールはもう見えていたので近寄って奏歌くんを抱き上げた。軽い体を抱っこすると自然と脚を腰に絡ませてくるから、抱っこされるのに慣れているのだろう。
だから奏歌くんが気にするなんて思わなかった。
「ぼく、ちいさい?」
「私、大人でもリフトするんだよ」
「リフト?」
「ダンスのときに持ち上げるの」
男の子のプライドを傷つけてしまったかもしれない。
慌てて私はリフトのことを言う。
「それに、私、ゴリラって言われてるくらい腕力があるからね」
笑って流そうとしたが、奏歌くんの表情は真剣だった。
「みちるさん、ぼくはみちるさんのこと、ゴリラだとおもわない」
「え?」
「みちるさんはいままで、ゴリラっていわれてきて、なれてるのかもしれないけど、ゴリラってじょせいにたいするほめことばじゃないきがする。ちからがつよいのはそんけいするけど、みちるさんはかわいいひとだよ」
どきりと心臓が跳ねる。
こんな熱のこもった言葉を私は今までもらったことがない。
笑いながら私をゴリラと評する団員や親友に悪気があったわけではないけれど、それで私が嬉しかったというわけではない。みんなが笑ってくれるならいいかと思っていたけれど、やはり嫌だったのかもしれない。
「奏歌くんは優しい……私、こんなに優しくしてもらったの初めて。奏歌くんは私が出会った中で一番いい男だわ」
口を突いて出た言葉に、奏歌くんは驚いてお目目を丸くしていた。
ペンギンの泳ぐのを見た後は、象の森に行く。広いスペースでアジアゾウが二頭ゆったりと干し草を食べていた。アジアゾウだというのは説明の看板を読んで知った。
「おおきいねー」
「うん、初めて見た」
「ほいくえんやしょうがっこうのえんそくでこなかったの?」
初めて見る象の大きさに驚いていると、奏歌くんが首を傾げて問いかける。
「あまり覚えてないの。小学校のときから歌のレッスンやダンスのレッスンに通っていたことは覚えているんだけど、小学校でなにをしたかとか、中学校でなにをしたかはあまり覚えてない」
興味のないことはとことん覚えないタイプの私だ。今までに色んなことを経験してきたかもしれないけれど、歌とダンス以外は記憶に残っていない。私はいつも演劇のことしか考えていなかった。
肉食獣エリアに行くときには、奏歌くんが私の手を引いてくれた。
「ライオンはうしろにおしっこするんだ。かかったらくさいしはずかしいから、ぼくのうしろにいてね」
「奏歌くんは?」
「ぼくはこどもだから、かかってもはずかしくないし、きがえがリュックにはいってるからへいき」
「守ってくれるんだ。格好いい」
小さな私の騎士様。
優しくて可愛い奏歌くんに私は夢中になってしまっている自覚があった。
ライオンはおしっこをしなかったけれど、暑いせいかぐったりとして動かなかった。
休憩スペースに奏歌くんが連れて行ってくれて、お手洗いで手を洗ってお昼ご飯にする。時間を見れば正午近くだったので、こんなところまで奏歌くんはきちんとしていると感心してしまった。
稲荷寿司は昨日の残りだけれど、二人で食べる量は充分あった。水筒の蓋のカップに麦茶を入れて先に私に渡してくれる奏歌くん。
「奏歌くんは紳士だね」
「そうなのかな?」
カップを返すと可愛い紳士の奏歌くんは自覚がないようで不思議そうな顔をしていた。
食べ終わってシロクマを見に行ったときに、食事をするので外していた手袋のことを思い出した。付けようとして、片方をシロクマの柵と展示スペースの間の溝に落としてしまう。
落としたものは仕方がないので諦めようとしていたら奏歌くんが柵から溝を覗き込んだ。
「コウモリになったらとれないかな?」
「いいよ、危ないから。手袋より奏歌くんが大事」
そんなことをさせられないと思うのに、奏歌くんは人気のない場所に行って蝙蝠になって溝に飛んで行った。小さな蝙蝠が一生懸命手袋のある場所を探して飛んで、手袋を咥えて飛び上がる。シロクマがそれに反応しないか私はハラハラして見まもっていた。
戻って来た奏歌くんは小さな蝙蝠の姿で私の胸に張り付いた。口から取って来た手袋を落として私にくれる。
「奏歌くん、こんな危ないことはしないで」
「ごめんなさい。どうしてもみちるさんのてぶくろをとってきたくて」
心配で胸が張り裂けそうだったのに、奏歌くんはこんなに健気なことを言ってくれる。蝙蝠になったのも前回が初めてで、慣れていないはずなのに躊躇わず私のためにそれを選択してくれたのが嬉しくて、心配なのに奏歌くんが愛おしくなる。
「も、もどれない……」
小さなハニーブラウンの目を潤ませた蝙蝠の奏歌くんに、私は女性用のお手洗いに入った。ひとがいないことを確かめて授乳室を借りさせてもらう。
カットソーの首筋を見せると、奏歌くんは勘付いたようだった。
「吸って良いよ」
「で、でも」
「大丈夫」
首筋に飛んできた奏歌くんがちくりと歯を刺して血を吸うと、男の子の姿に戻る。男の子の姿の奏歌くんを膝に乗せて抱き締めて、私はしみじみと呟いた。
「手袋なんて何度でも買えるのに……奏歌くんの拾ってくれた手袋、宝物になっちゃった。大事にしないと」
感激している私に奏歌くんの反応は想像と違うものだった。
「なんでもかわなくていいんだよ」
「どういうこと?」
「みちるさんは、もっとおかねをだいじにしなくちゃ。みちるさんがいっしょうけんめいかせいだんでしょ?」
金目当てで近付いてきた相手も、品物を買わせるために呼び出した相手も、結婚するという約束で借金を背負わせた相手も、みんな大人だった。奏歌くんはたったの6歳なのに、それを全部覆すようなことを言う。
「お金はみんな私が払うものだと思ってた。私のことを楽しませてくれるお礼に」
今までの男運を全て返上するような素晴らしい相手が膝の上で抱っこされている事実。
ただただ、それが幸せだった。
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