蓮花の過去を知りますか?▼(1)
【蓮花 5歳】
最も古い記憶はお腹が空いていたということ、身体中がじんじんして痛かったということだ。
両親から殴られたり、蹴られたり、熱湯をかけられたり、放置されたり、そんな記憶が一番古い記憶。
食事もろくに与えてもらえなかった。
自分が生きる為に何でも口に入れた。
食べられるものとそうでないものは、食べてみてから自分で判断するということを求められた。
例えば、苦いものはすぐに吐き出して、しょっぱいもの、甘いものは大体大丈夫、痺れるようなやつも駄目、みたいな。
幼いながらも、食べたらいけないものは両親の挙動を細かく見ながら口に入れないと容易に死んでしまう状態だった。
そんな中生きていられたのは我ながら奇跡だと思う。
多分、私が男じゃなかったからそういう扱いを受けた。
それが分かったのは私に弟が生まれた時だ。
弟は私と全く違う扱いを受け、両親の寵愛を受けて祝福された。
一方、何故自分がこんな扱いを受けているのかは分からなかった。
時には家の外に閉め出されて家の中に入れてもらえない時もあった。
他にも色々不遇な扱いを受けたが、列挙していると日が暮れてしまう。
でも、どんなに酷いことをされても私は泣かなかった。
泣いても何も解決しないということは嫌という程分かっていたし、泣いた分のエネルギーを補充することができるとは限らない。
私は食べるものにすら事欠く日々を送っていたのだから。
――寒い……痛い……
家から閉め出されたとき、私は一人の男の目に留まった。
確かに真冬の雪が散る中、薄着で且つ裸足で膝を抱えて座っていたら嫌でも目に留まるだろう。
それでも私は不遇な扱いを受けているとは思っていなかった。
それが当然だと思っていたし、不平不満など口にしても両親から暴力を受けるだけだ。
「どうしたの? こんな雪の日に裸足で。凍傷になってしまうよ」
家の中ではほぼ無視をされている私に話しかける誰かがいたことに驚いた。
それが私の人生の転機になった。
その男はライリーという男で、回復魔法士という仕事をしているらしい。
行く場所もなかった私は実質ライリーに保護される形でしばらくライリーの家に出入りしてなんとか生活していた。
両親はというと、私がいなくなっても大して変わらない様子で弟の方を構ってばかりだった。
私の方はというと特別両親に執着はなかった。
自分が生きていくことに精一杯で、生きていくこと以外の事に注意を払うことができなかったというのが正しいかも知れない。
ライリーはそんな私の家庭状況を見かねて両親に直接の指導をしたりもしていたが、逆にそれがますます私と両親の関係に軋轢を生むことになるとは分からなかっただろう。
両親からの対応は直接的な暴力から陰湿なものへと変わっただけで、根本的な解決には至らなかった。
何故両親がライリーの言葉をある程度聞くに至ったのか後で分かることになった。
両親は代々優秀な回復魔法士の血統らしいということを、両親ではなくライリーから聞いた。
その両親よりもライリーは上の立場の回復魔法士らしく、だから両親もライリーの言葉を邪見にすることはできなかったようだ。
「困ったね。こんな幼い子供なのに……そうだ、好きな食べ物があれば買って来るよ。何かあるかな?」
「………………」
ライリーが何を言っているのか分からない訳ではなかったが、何か言葉に口にすると大概ろくなことにならないと学習していた私は無口だった。
ライリーが困っているのは分かったけど、私にどうしてほしいのかは分からなかった。
それに、ライリーは子供の扱いがあまり得意そうではなかったのもあって、私とライリーの関係は最初はあまり良好とは言えなかった。
けど、ライリーは私に暴力を振るったり、無視をしたりせずに話しかけてきたり、両親とあまりにも違う対応で私は戸惑いながらも少しずつライリーに心を開いていったと思う。
仕事柄ということもあったのだろうけど、ライリーは心を閉ざした私を普通の子供にしようと奮闘していた。
しかし、幼少期に刻み込まれた心の傷というのは容易に消えず、結局それは今日に至るまで治らなかったと思う。
ライリーに「名前を教えて欲しい」と言われた時に、私は自分の名前を知らない事に気づいた。
自分の名前を知らないと言うと非情に困った表情をした。
その後にライリーは私の出生の届け出などを調べてくれたらしいが、私は出生届すら出されていない子供だった。
名前もついていない状態だったらしい。
ライリーは私に名前をつけようとした。
確か「リリー」とか「静子」とか「メアリー」とか、そんな候補があったと思うが私はどれも自分の名前として認識できなかった。
そんな中、私は花の図鑑を見ていて蓮の花を見つけた。
文字が読めなかったので、ライリーに説明を呼んでもらった。
その説明には「蓮の花は泥水の中で育ち花を咲かせる。 澄んだ水は好まず、泥水が濃いほど美しい花が咲く」と書いてあるらしかった。
それを聞いて、まるでそれが自分のことのように感じた。
私は、両親からの態度が普通に感じ、優しい言葉や暖かい待遇に違和感を感じるようにすらなっていた。
私は泥の中から咲く花。
蓮の花と書いて、蓮花という名前にしよう。
「蓮花か……自分がそれで気に入っているなら良いと思うよ。結構可愛い名前を考えたりしたんだけど。まず自分の名前を書けるようになろうか」
ライリーは少しばかり残念そうだったが、私は自分でそう名乗ることにした。
1番初めに文字を書いたのは自分の名前だった。
文字の書けない私に対して、ライリーは絵本を読んで文字を少しずつ教えてくれた。
「絵本を読んであげようか」
両親の家には沢山本があったのは知ってる。
でも、文字が読めなかった私にとっては食べ物ではないその紙の束には心底興味がなかった。
ライリーの絵本の読み聞かせはあまり上手とは言えなかった。
ときどき登場人物のセリフに合わせておどけてみせたりしていたけど、急に変な声を出して本を読んでくれてもその面白さのようなものは私は良く分からなかった。
まぁでも、文字の読み方と意味を教えてくれたライリーには感謝してる。
ライリーが見つけてくれなかったら私はあの雪の日に野垂れ死んでいたかもしれない。
文字の読み書きがある程度できるようになってからは、ライリーの家の難しい本を読んでいた。
言葉が分からない場合は辞書をひきながら本を読んだ。
そんな私を見かねてか、子供らしい遊び道具をライリーは与えてくれたがその玩具がどう楽しいか私は分からず、結局本を読んでばかりだったと思う。
それよりも、傷や病を患っている人の治療を行っているライリーの姿を見て私はそちらに興味を持った。
最初は見ているだけだったが、ふとした瞬間に自分の身体で試してみようと思った。
まずは傷がなければ試しようもない為、ライリーの家の手頃な刃物を使って自分の身体を傷つけ、試してみた。
最初は思うようにできなかったが、何度か試すうちにコツを掴んでなんとなくできるようになった。
浅い傷とはいえ、不完全な回復魔法を使ってしまっておかしな治り方をして身体に残ってしまった傷痕もある。
しかし、何度か試すうちに完全に傷痕を消すことができるようになった。
「何をしているんだ!?」
そんな自分の身体で実験しているところをライリーに見つかり、大変心配をかけたし、怒られたし、何よりも複雑な回復魔法を幼いながらも使っていた私に驚いていた。
私はわずか5歳幾ばくか程度の年齢で、回復魔法という複雑な魔法式を理解し使うことができた。
ライリーは私の才能を見て「私の下で勉強しなさい。素晴らしい回復魔法士になる」と言ってくれた。
実際私はライリーの複雑な魔法式を見て覚えて怪我や病の治療の仕事を与えられて、それをライリーの指導の下、行っていた。
最初は簡単な軽い傷、重くない病を担当した。
そして、わずか5、6歳で私は自分で働いて給金をもらうようになった。
でも、人の病を治したり、怪我を治したりしたときに「ありがとう」と感謝を伝えられても、私には何の感情の変動もなかった。
ただ、粛々とライリーの指示通りのことをしているだけで、私には何の目的もなかった。
ただ、漠然としたこの先の不安があって、私は自分の存在意義が分からなくなっていた。
――生きている意味が分からない……
――どうして私は生まれてきたのだろう……
――何の目的も見いだせない……
私は何にも興味を示さない性格だった。
回復魔法を使ってみたのも気まぐれだったし、できるかなと思ったからやってみただけだ。
それがこの後、この世界にとってどれほどの意味があるとも私はこの時知らなかった。
そうしてライリーは私の両親から正式に私を譲り受けるように手続きをしていた。
ただ、両親は私に回復魔法の才能があると知るや否や私の親権についてライリーと争った。
私はその件に関しては無関心であった。
しかし、一方で私の弟は年齢に照らして他の子供ができる平均的な事が未だにできないという両親の焦りはあっただろう。
家の跡継ぎは弟と生まれた時から決まっていたはずなのに、私の方が優秀だと知るや否や私を後継者にしようとした。
その大人の都合に振り回される私はうんざりしていた。
しかし、私の唯一の気がかりは弟だった。
弟が後に回復魔法士としての才能がないと分かれば両親は今度は弟を虐待するかもしれない。
――弟も私のような扱いを受けるのだろうか
私は両親の寵愛を受ける弟を、両親の隙を見て覗き込んで見たことがあった。
まだ生まれて間もない儚い命だ。
何故弟は両親にとって特別なのだろう。
そんな気持ちから、私と何が違うのかと弟を見て何とも言えない形容しがたい感覚に陥った。
嬰児である弟は、白くて、柔らかくて、何の穢れもないその瞳、無垢な笑顔、私の指を力なく握るその小さい手、まるで私と正反対の存在に思えた。
まだこの世界の苦しみの一片も知らないその命が、私が受けた苦難の日々を受けると考えれば、私は耐えがたい気持ちになった。
生まれて初めて自分以外の何かに自分の気持ちが動いた瞬間だったと思う。
「守らなくては」と、そう思った。
両親の負の感情の矛先が弟に向く前に、私は勝手に弟を家から連れ出した。
当然、弟がいなくなった時は大騒ぎになった。
実質攫って来たような形になり、ライリーも私を説得しようとしたが私は意地でも弟を離さなかった。
私は言葉巧みにライリーを説得したわけではないが、私の両親からの待遇や、その後の両親とのやり取りでもライリーは察した様子で「分かったよ」と私ではなく両親を説得する方向で動いてくれた。
後から聞いた話では、ライリーは職権を使って結構無理をして私と弟を庇ってくれたらしい。
まだ何もできない嬰児をどう世話をしたらいいか分からなかったが、ライリーに世話の仕方を教えてもらった。
とはいえ、ライリーも独り身であって子育ての経験がなく、子育ての本などを参考にしながら2人で弟を育てることとなった。
ライリーは急に子供を引き取ることになって、今思えば大変だっただろう。
弟には両親から与えられた名前があった。
「冬月……」
『月』というのは、おとぎ話に出てくる星の名前だ。
冬の冷たい空気、暗い夜を照らす光、この世の闇を払う指標、そんな意味があるらしかった。
私の暗い闇を照らす光、弟はそんな存在だった。