琉鬼の過去を聞きますか?▼(1)
【花園琉鬼 転生前】
「我は、漆黒の影、闇の加護を受けし者……」
昼間でもカーテンを閉め切った暗い部屋。
散らかったゴミ。満杯になっている大量のごみ袋、使用済みのティッシュ、酒、酒の空き瓶。
そして、目の前にあるのはパソコンとモニター。
モニターで動画やアニメ、映画を見ながら本体の方でオンラインゲームを延々とするだけの日々。
風呂にはもうしばらく入っていないし、部屋からも出ていない。
生活保護の金でぎりぎり生活している。
買い物はネットで済ませて、食べ物も配達で済ませていて、外に出なくても生活が出来ている。
「ちっ、下手なエイムだな! 足引っ張るなよ!!」
ダンッ!
台パンしながら我はネトゲを続ける。
カタカタカタカタカタカタカタ……
カチッ……カチッ……
我は望まれて生まれた訳ではなかった。
所謂、できちゃった婚。父親も母親も我に対して無関心か、八つ当たりの対象程度にしか思われていなかった。
赤ん坊の時のことは覚えていないが、泣いても放置されたり、口を塞がれたり、物を投げられたり、そんな状態だったらしい。
それでも、我はなかなか保護されずに両親のもとで育った。
とはいえ、父親の方は他所に別の女を作って出て行った。
我が3歳くらいのときだ。
突然帰ってこなくなった父親に対して、我は何も感じなかった。
いても我を殴ったり怒鳴ったりする人間が1人いなくなったのだから、それでよかった。
しかし、母親の方はそれが大分応えたようで、我に対する虐待は日に日に酷くなって言った。
タバコの火を背中に押し付けられたり、冬に冷たい水をかけられてベランダに追い出されたり、死にかけたことは何度もある。
母親はろくな食事を我に与えなかった。
それに、ろくに帰ってこなかった。
我は学校に行っても「臭い」とか「キモイ」とか言われていじめられて行く場所もなく、必然的に学校にも行かなくなった。
学校に行くのも嫌で、土曜日と日曜日以外は外に出ても警察官に補導されるし、家から出ることも殆どなくなった。
食べ物がなくなると仕方なく外に出たものの、食べ物を買うお金もなかったし、かといって食べ物を与えてくれる人もいなくて、どこに行っても我は煙たがられた。
都会の人は冷たい。
子供が1人で困っていても、誰も手を差し伸べてくれなかった。
あまつさえ、我からなけなしの金をカツアゲしようとする不良さえいた。
食べるものがなくても、公園に行けば水は飲めた。
水だけの生活を3日したところで、我は動けなくなり、倒れているところを警察に保護されて、3日ぶりの食事をして、初めて優しい言葉をかけられて、涙が出てきた。
水だけの生活もつらかったが、1番辛かったのは公園で見る無邪気な我と同じくらいの子供と、その親の様子だ。
我の知っている親と、他の子の関係は我と親の関係とは全く違った。
あんなふうに撫でてもらったことはなかった。
あんなふうに笑顔を向けてもらったことはなかった。
あんなふうに手を繋いでもらったことはなかった。
警察とか、児童保護施設やらの介入で、我は保護されたが母親は保護責任者遺棄罪に問われて逮捕された。
我は保護施設に入ったが、別に馴染むことはなかった。
他人が怖いと強く思うようになっていた。
優しい言葉をかけられて、それを真に受けてもあっさり裏切られることは沢山あった。
まともな医療を受けてこなかった我の身体はボロボロだったようだ。
身体もさることながら、心――――精神の方にもかなりの傷を負っていた。
そして、発達障害という診断がついた。
我は、劣等者というレッテルを貼られた気がした。
だから、もっと我は自信を、自尊心をなくした。
保護されても、結局学校には行かなかった。
我は、その施設内で漫画やアニメ、ゲームというものに出会った。
そこに出てくるヒーローはいつでもかっこよく、悪を打ち砕いていくのだ。
我は自分がヒーローになるために、何をするべきか頭の中で考えた。
空想というやつだ。
我は空想にふけることが多くなった。
現実は辛いだけだ。
しかし、自分の頭の中では自分は常にヒーローであり続ける。
我が空想の中に閉じこもっている中、母親は警察から解放されたが、母親は我のことを迎えに来ることはなかった。
我は母親にも捨てられた。
でも、そんなことは関係ない。だって我はヒーローだから。
義務教育すらまともに受けなかった我は、何をどうしたらいいのか全く分からなかったが、保護施設の人が就職の支援をしてくれた。
しかし、我はどこの会社にも必要とされていなかった。
障害者枠の採用もあったが、文字の読み書きすら危うい我には社会に、世界に居場所がなかった。
とりあえず施設の人が生活保護の手続きをとってくれて、我は1人、安いアパートに放り出された。
実際はどうなのか分からないが、施設の人も我のことを疎ましく思ったのかもしれない。結局我は捨てられる運命なのだ。
生活保護を受けて1人で生活していたが、何もすることがなかった。
ただ、アニメや漫画、ゲームをするためにパソコンを購入した。
スマホは買わなかった。
連絡する相手もいないし、市役所とかから電話がきても鬱陶しいだけだ。
パソコンを買ってからの我は、得られなかった情報を簡単に得られるようになった。
勉強は嫌いだが、何でも簡単に知ることができるようになった我は、この世の現実を知った。
現実とはいつも無常だ。
我が知っている現実と、世の中の現実は全然違った。
自分の置かれている現実の凄惨さに、涙も出てきた。
誰にも頼ることもできずに、頼り方も分からずに、しかし知識をつけて我は世の中を見下し始めた。
我は哀れなんかじゃない。
我は生活保護で人様があくせく働いてる中ダラダラとネットができる。
働きすぎて過労死することもないし、働かなくても国から生活保護が入ってくる。
贅沢はできないが、我は安いアパートで家賃と水道光熱費と通信費と食費、ときどき酒を買ったりしてだらけきった生活をしていた。
買い出しは面倒なので宅配で食べられるものというとジャンクフードが多く、栄養が偏って、元々我は太りやすかったのもあって肥満体系になった。
そんな生活がずっと続き、当然我は病気になった。
具合が悪くなったから病院に行ったら糖尿病だと言われた。
「食生活を見直して、野菜をメインに不摂生はやめないと。適度な運動も必要ですね。このままだと死んでしまいますよ」
医者にそう言われたが、我は生活を改めることはなかった。
でも、糖尿病の症状が進行するにつれて我は生きているのがつらくなった。
もう生きることを簡単に諦めた我は、楽に死ねる方法を探した。
しかし、楽に死ねる方法なんてものはなく、我は途方に暮れた。
とりあえず1番苦しまないと言われている首吊りをしようと思って、首吊りに耐えられそうな丈夫な縄を買ってみたが、ドアノブに縄をかけて、自分の首にかける時に我は急に恐ろしくなって我は怯えた。
その時初めて「死ぬのが怖い」と感じたのだ。
今まで、いつ死んでも構わないと思っていたのに、いざ首に縄をかけるときに怖気づいて我は泣いた。
そして、1日中布団の上でただ死ぬのを待った。
だが、死ぬのを待つのも怖かったし、苦しかった。
首吊りが怖いなら、餓死をすればいいと考えた。
でも、空腹は子供の頃に経験した通り苦しくて、喉が渇いて、どうしても飲み物を飲んでしまう。
どうしても食べ物を食べてしまう。
電車のホームから飛び降りて死んでしまおうかと駅のホームに行ってみたが、電車をいざ目の前にすると足がすくんで飛び込めなかった。
糖尿病の症状が進んで、我はどうすることもできなくなるまで暴飲暴食をすることにした。
最期くらい、食べたいものや飲みたい物を接種して、それで死のうと思った。
当然、死ぬまでには時間がかかったし、かなり苦しかった。
そして、やっと我は死ぬことにみっともなく成功したんだ。