天使の聖域に入りました。▼
【メギド デルタの町付近】
私には確信がなかった。
確かに私は何でも美しくこなす。
佇んでいるだけでそこに華があるし、存在しているだけで周囲の空気までもが美しく輝く。
それは確定していることだが、私は今までの選択の数々が正しかったのか確信が持てなかった。
――ゴルゴタがあぁなってしまったのは私の責任だ
ゴルゴタがあのまま、憎しみに身を任せて母を殺した勇者らに向かって行ったら間違いなくゴルゴタは殺されていた。
それを防ぐには閉じ込め続けるしかなかった。
ただ、私はそれをあまりに楽観視していたと今更気づかされた。
いずれは人間への憎しみを忘れるだろうと、年月が解決するだろうと考えていた。
だが、それは甘い考えだった。
ゴルゴタは人間への憎しみ、私への憎しみで狂気に沈んでいってしまったのだ。
深く、深く……――――。
そのゴルゴタが暴走して此度の不祥事を起こしてしまったこと、私の『血水晶のネックレス』の半身を奪われた事も私の慢心が招いた不祥事だ。
私の不祥事は私が片付けなければならない。
――この窮地を覆す一手である『時繰りのタクト』が必要……
だから私は反吐が出るほど大嫌いな天使族の領域までわざわざ足を運んだのだ。
天使の聖域が近くなるほど、私は吐き気を催した。
それでなくとも魔族の楽園よりここまで翼を使って飛行を行って疲れているのだから尚更だ。
いつもタカシやクロに乗って移動していただけに、1人でここまでくるのはかなり疲労した。
身体の呪印のせいで全盛期の力を出すことはできない。
天使族にそれだけは見破られないようにしなければならないだろう。
戦闘になったとしても余裕を見せつけなければならない。
だが、実際にはそれは難しい。
大天使がこの地上付近に降りてくるとは考えにくいが、大天使が来たとしたら戦況としては圧倒的に不利。
まして、天使の聖域の中での戦いは魔力の制御が難しくなる。
戦闘を避ける為、私は完璧な話術で虚構すら真実として語ろう。
私は天使の聖域の付近まで来たところで周囲を最大限に警戒した。
いつ天使が出てきてもおかしくない。
下級天使か、中級天使であれば何人束になったところでさして脅威ではない。
――問題は大天使だ。ただの天使であっても吐き気を催すというのに、大天使などという性根の腐りきったやつらを前にしたら、私は吐瀉どころか内臓が全てひっくり返って口から全て出てきてしまうかもしれない
大天使とは会ったことはない。
だが、センジュからの話を聞く限りろくでもない連中であることは間違いないだろう。
――過去――――――――――――――
「センジュ、大天使とはどのような者たちだ?」
「大天使でございますか……ミカエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエルの四大天使が少数の上位天使の上として君臨し、最高位の天使としてルシフェルが取り仕切っておりますね」
「名前には興味がない。その腐った性根が知りたいのだ」
「メギドお坊ちゃまがご存じの通り救世主思想を持っており、善行を積むことで魔神に近づき、そしてその姿を見、聞き、そして啓示を受けられると信じておりますね。時には相手をわざと窮地に立たせるように立ち回り、それを自ら助けることで善行を積もうとするとか……」
「何が善行だ。自分で火をつけてそれを消しているだけではないか」
「左様にございますね。真に魔神に近づこうとしているのはルシフェル率いる四大天使らに近い上級天使で、他の天使は魔神を信じていない者もいるようですね」
「何故、上位天使がそこまで魔神に妄執する?」
「さて……最上位天使のルシフェルは魔神と直接会ったことがあるとのことですが……」
――現在――――――――――――――
――魔神などと嘯く輩がまともであるわけがない。三神伝説など、ただの世迷言だ。何世紀前から生きているか分からないが、年老いた大天使など私が引導を渡してやろうではないか
聖域は視覚的に見えるものではない。
そこには何もないように感じ、悪魔族以外の魔族であれば関知することもできない。
その嫌な感じに。
結界とはまた違う、天使族特有のその聖域を私は感じ取っていた。
手を伸ばせばその末端に触れることになる。
辺りは鬱蒼と茂る木々ばかりで、目立ったものは何もない。
天使の聖域に私が手をかざそうとした瞬間、聖域に歪みができ、まるで開くように聖域は動いた。
その動きに私はいち早く反応し、後ろへと後退する。
――何が起こっている? 聖域が歪んで……天使に感づかれたか? 奇襲か? 何体くる? 下位? 高位? 中位……
私が思考を巡らせている間に、想定している最悪の事態がそこに待っていた。
「内臓を吐き出さないでくださいよ。メギド様」
しわがれた老人の声がした。
厭味なほど眩しい、私の大嫌いなその二対の白い翼。
そして白い服に、腕には真っ白な腕章――――
「わざわざ上級天使がおでましとはな……」
1、2……いや、5だ。白い腕章が5名いる。
白い腕章が5名ということは少なくとも上級天使。
そしてそれはこの場において四大天使と判断できる。
それと、この老天使は……――――
「おっと……初めましてですかな。わたくしはルシフェル。貴方が蛇蝎のごとく忌み嫌う白き翼の統率者です」
髪も、髭も白く、皺のある肌も、服も、翼も、腕章も何もかもが白い。
何百年も生きている老体でありながら、しかしセンジュと同様に衰えを全く感じさせない実力を、その容姿を見ただけで感じとることができる。
「大天使どもがわざわざ私をお出迎えとはな。私に対する礼節を弁えているではないか」
私が警戒していることを悟られないように、悠々と応答をする。
「はっはっは。“まるで私が来ることが分かっていたかのように”って顔をしておいでですね。ええ、分かっておりましたよ。本日、この時間、この場所に貴方が来ることは」
「なんだと……?」
――楽園の者の誰かが天使族にリークしたのか? いや、場所までは分からないはずだ。それではなぜ……
「まぁ、こんな辺境の場所で立ち話もなんですので、どうぞ中へ」
大天使を連れてきたルシフェルに敵意は感じない。
私と一戦交える為に来たわけではないようだ。
「何を考えている……?」
「わたくしたちともしましても、貴方のような穢れた混血の黒い羽を招き入れるのは吐き気がいたしますがね……今はそうも言っていられない緊急事態なのですよ。我々に害意があるかどうかくらい、貴方にはお見通しなのでしょう? でしたら、臆することはありません。まぁ……貴方の行動もわたくしにはお見通しですけれどね」
「…………」
「わたくしもこんな穢れた地と近い場所にいると穢れてしまいます。貴方の目的は分かっています。『時繰りのタクト』でしょう?」
ルシフェルは細かい細工の入っている白い棒を私の前に出して見せた。
それはまごうことなき『時繰りのタクト』であった。
私は書物で見ただけだが、それからは異様な嫌な魔力を放っているのが分かる。
――なぜ私の目的までもを知っている……? いや、私が薔薇につく虫のごとく嫌う天使の前に現れるということは重要な目的がある以外にはありえない。それが『時繰りのタクト』であることは明白。だが、何だ? この違和感は……
「貴方が疑問に思っていることを全てお話いたしましょう」
「…………いいだろう。私も話が早く済む方が内臓を吐き出す前にここを去ることができそうだ」
――いや、何故私が内臓までもを吐き出すほど吐き気がしているとこの者たちには分かっている? 思考を読む魔法か……?
「どうぞどうぞ、貴方にとっては吐瀉物以下のウジ虫の這いまわる醜悪な街でしょうが……ね」
「…………」
ルシフェルは私に簡単に背を向けた。
それが私の癇に障る。
私がその背中を狙わないと確信しているところが気に食わない。
そして、私など取るに足らないもののように扱うその姿勢。
――吐き気で内臓が喉元まででかかっているような気分だ
そうして私は天使族の領域に足を踏み入れた。
***
「なんだこれは……」
天使族の街に入って初めに見た光景は、大量の赤い花だった。
薔薇に似ているが、少し違う。
その真紅の薔薇のような花からは強い呪いの気配があり、とてつもなく嫌な感じがした。
それも、天使族の身体から生えており、根をその肉の中に生やし、血や魔力を吸われている様だった。
その花が寄生している天使が苦悶の表情を浮かべて呻き声をあげながら悶絶している。
時には絶叫してのたうち回っている天使もいた。
いずれも黒い腕章か、灰色の腕章をしている天使たちだ。
収容できる建物が足りないのか、外の地面に布を軽く敷いただけの場所に大量に横たえられている。
それを看病しているのも黒い腕章か、あるいは灰色の腕章の天使らだ。
「本来、大天使の我々はここよりも更に上の聖域にいるのですがね、貴方様が地べたを這いずっていらっちゃったので、わざわざこんな穢れた地へと降りた来たのですよ」
「わざわざお気遣いご苦労であったな。それで……この惨事は何事だ? 奇病でも流行っているのなら私は『時繰りのタクト』を持って早々に立ち去りたいのだが」
「ふっ……愚かな方だと常々考えておりましたが、いえ、貴方などわたくしの崇高な思考の中になど存在できませんがね。物の例えですよ。はっはっは」
「天使族が爪の先から髪の毛一本細胞の1つとっても不愉快なのは先に分かっていた事だ。年寄りのくだらない挑発ごときで私は憤慨したりはしないぞ。低レベルな長の器が知れるな」
その瞬間、私の首元に大天使らの剣が突き付けられた。
冷たい刃の感触がする。
「ルシフェル様になんということを……!」
「貴様のような穢れの塊など、我らが聖域に入れることすら憚られるというのに!」
私はそれを恐ろしいとは感じなかった。
その刃には敵意こそ感じるが殺意は感じない。
私を殺す気がないことなど、一目瞭然だ。
悪魔族である黒い翼の私が天使の聖域の中にいるのは異質なことであるにも関わらず、他の天使は私を対して気にしていない様子だった。
ルシフェルを認識した天使らはルシフェルに跪き、頭を垂れる。
私などそこに存在していないように扱う天使らの様子にますます私は苛立ちを覚えた。
「剣を収めよ。そのような脅しに屈服するような小物ではない。はっはっは、小物に今まで支配されていたとあっては天使族の立場がありませんからな」
「くだらない話をするつもりはない。この天使族らの有様はなんだと聞いているのだ。私の質問に答えろ」
「……ふふふ……まぁ、そう焦らずに。我々最上位天使の住む領域まで特別にお招きいたしますよ。光栄ですねぇ……魔王メギド様をお招きできるとは。おっと……今は元魔王メギド様でしたかね……」
「年寄りというのは話が長いな。こんな辺境に閉じこもっている辺り、相当に世間知らずのようだ。長話をする者は嫌われることを知らないらしい」
「そうは言いましてもね、貴方様はわたくしどもの提案に乗るしかないのですよ。いくら虚勢を張ってもね……可愛くて仕方がないですね。ほら、ここよりも上層へ行きますよ。その体力のない身体でついてこられますかな? お辛かったらお手を拝借いたしますので遠慮なくおっしゃってください」
ルシフェルはずっと私に背中を向けたままだ。
振り返って話すこともない。
口であれこれ挑発されるよりもずっと私の癇に障る。
――天使族とはどうにも仲良くすることはできないな
私は上位の天使しか入ることが許されない聖域に向かって翼をはためかせ、飛んでルシフェルらを追いかけた。