後編
ブランカとアズラクはお互いに声をかけかねているようだった。
アズラクは謝ろうとしていて、ブランカは安心させるように微笑もうとする。
けれど二人で顔を合わせると動けなくなる。様々な感情が二人の顔をよぎって、どちらともなくうつむく。
巣から顔を出したひな鳥が飛ぶのをためらっているように、二人はお互いに一歩が踏み出せないでいるように見えた。
湖の氷は厚くなり、凍りついた大地からは一切の生命の色が消えていく。
レイズルには迷いが宿るようになった。
まもなくブランカは冬眠に入る。モルフォビラ侯の言葉を信じるなら、アズラクも同じだ。
その間にアズラクを遠ざけて、またブランカと二人だけの春を迎えればいい。
でもそれが本当に、自分が彼女にしてやれる最良のことだろうか。
迷い、思考がめぐっては、また迷う。
レイズルもまた踏み出せないでいたある日、ブラン・フォンセでパーティが開かれた。
「アズラクが来たお祝いがまだだったからね。華やかにしよう」
モルフォビラ侯は提案して、自ら部屋を飾り始めた。
冷え切った石畳にビロードの絨毯を敷き詰めて、水晶をちりばめたカンテラをつるす。
「はい、おとうさま。お部屋をきれいにして、おいしい花蜜を並べましょう」
ブランカもうなずいて、部屋の掃除を始めた。
背伸びをして天井近くの蜘蛛の巣を払おうとしているブランカを見かねて、レイズルは彼女の手からすす払いをかすめ取った。
「ドレスや宝石を選んでおいで。掃除は兄様がする」
「だめよ、おにいさまがほこりをかぶってしまうわ」
「じゃあ、兄様の服を頼んでいいかな?」
レイズルは困ったように首を傾げる。
「パーティなんて久しぶりだから、どこにジュストコールを仕舞ったか忘れてしまったよ。きっとほこりを被ってるだろうな。探して、きれいにしてきてくれる?」
「おにいさまったら」
ブランカはくすっと笑って、踵を返す。
壁のほこりを払い始めるレイズルに、モルフォビラ侯は耳打ちする。
「綺麗好きなおまえが正装だけほこりを被せてる理由、初めて知ったよ」
レイズルが答えないでいると、モルフォビラ侯は振り返ってブランカの方に言った。
「アズラクの服も選んでやりなさい。ここのパーティは不慣れだから」
ブランカの背中は一瞬緊張した。
ブランカが前を向いて歩き出すのとレイズルがモルフォビラ侯をにらんだのは、ほぼ同時だった。
樫のテーブルにレースを敷いて、花蜜を満たした銀のカップを置く。
カンテラの灯りが点されると、パーティの始まりだ。
モルフォビラ侯は楽器を、レイズルは詩を、ブランカは歌を好む。
そしてモルフォビラの一族は何よりダンスが好きだ。
時に一人で、また二人で、みんなで手を取って踊る。蝶が羽ばたくように、ジュストコールの裾やドレスのレースがひらめく。
一人、アズラクだけが壁際で立っていた。
モルフォビラ侯が何度もダンスに混ざるように誘ったが、彼は首を横に振るばかりだ。
レイズルと踊りながら、ブランカは心配そうにアズラクをみつめる。その視線の先を、レイズルは追う。アズラクは視線をさまよわせる。
視線のからみあいの中、ブランカとアズラクの目が合った。
ブランカは足を止める。アズラクは一度顎を引いて、覚悟を決めるように前を見据えた。
「僕と踊ってくれませんか」
ブランカは少し迷って、アズラクの差し伸べた手をみつめた。
モルフォビラ侯がバイオリンを置いて、壁に立てかけた卵型の弦楽器を手に取る。
ウードというらしいそれは、アズラクと共にモルフォビラ候が持って帰ってきたものだ。
モルフォビラ侯が指先で弦を弾いて、異国の音色を紡ぎだす。
もの哀しいウードのしらべに乗せて、二人は踊りだす。
レイズルは息を詰めて二人を見ていた。嫉妬を忘れていた。二人のダンスは呼吸一つ違えることもない、神々のダンスのように見えた。
ダンスは終わり、アズラクはブランカの前にひざまずく。
手を伸ばしてブランカの手に触れる。レイズルには制止の声が出ない。
瞳をうるませて彼をみつめるブランカを、止められるとは思えなかった。
「あなたに出会い、自分を好きになれました」
アズラクは彼女を見上げて告げる。
「僕とつがいになってください、ブランカ」
そうしてアズラクは、澄んだ青い瞳でブランカをみつめた。
北風が窓を叩いて、ブラン・フォンセを揺らしていた。氷の粒が空を行き交う。
黒い毛布にくるまって、ブランカは静かな寝息をたてている。
まもなくブランカは冬眠に入る。春まで目覚めることはない。
ふんわりとした白い髪に手を差し入れて、レイズルは暗い目でブランカを見下ろす。
今が最後の機会だと思うのだ。
ほんの少し一緒に過ごしただけのアズラクになど渡さない。
……レイズルとブランカがつがいになって、何がいけないというのだろう?
兄妹という禁忌はある。だがつがいを探すのが不可能なほどに滅びたモルフォビラ一族において、それがどれほどの意味を持つだろうか。
手に触れるブランカの髪の感触に、胸がじくりと痛んだ。
同じ翅を分けあって生まれた半身。いついつまでも変わらず、共に生きていけると思っていたのだ。
ベッドの脇に片膝をついて、すがるようにブランカの手を両手でつつみこむ。
懐かしい記憶が脳裏をよぎった。
両親を亡くしてまもない頃だった。レイズルはゆりかごに入れたブランカを、無感動にあやしていた。
レイズルはすでに少年に達していて、モルフォビラ一族というのがどういうものなのかわかるようになっていた。
たぶんもうモルフォビラは生まれない。取り残された自分の未来はどこにも見えない。
一族は遊戯以外に関心を払わず、子どもの感傷につきあうこともない。
レイズルは一人だった。
そんなとき、ゆりかごから元気な声が響いた。
白く丸い手が伸ばされて、宙をかくように動く。
レイズルがのぞきこんだら、そこにあったのは屈託のない笑顔だった。抱き上げられるのを少しも疑っていないように、いっぱいに手を差し出していた。
吸い寄せられるように手を伸ばしてブランカを抱き上げる。
空色の瞳はまっすぐにレイズルを見ていた。ぺたぺたとレイズルの頬を柔らかな指が触れる。体重を預けて頬を寄せてくる。
ブランカの体温を感じて、レイズルは知らず涙を落としていた。
……これは永遠ではない。けれど自分は今、この子にとっては必要な存在なのだ。
ブランカに笑いかけられて初めて、レイズルは自分の価値をみつけられた。
それがどれだけうれしかったか。どれだけ、大切にしたいと願ったか。
そのブランカを、自分は傷つけられるのか。
「……そんなこと、できるものか」
気づけばレイズルはつぶやいていた。
肉体的な傷はいずれ癒える。
だがレイズルがブランカの純潔を奪うことは、彼女から兄を奪うことだ。安心して寄りかかれる存在を、ブランカは永遠に失う。
一人放り出されるあのときの孤独を、ブランカに味わわせることになる。
レイズルは首を横に振った。
ブランカの額に自分の額を合わせて、強く目を閉じる。
体を離して、眠るブランカを目に焼き付けるように見下ろす。
レイズルは立ち上がると、静かに扉を閉めて廊下に出た。
「どこへ行くのですか」
廊下の向かい側にアズラクが立っていた。
吹雪で建物全体が震える中、青い瞳は揺らぐことなくレイズルを見ている。
「いつからそこにいた?」
「あなたがその部屋に入ったときから」
そうなるとパーティが終わった二日前の夜からずっと見張っていたことになる。
「ご苦労なことだな」
「当然です。僕はブランカに求婚したのですから」
アズラクは下からでも鋭くにらんできた。
まるでレイズルがブランカとつがいになろうとしたことを見通したような口調だった。
レイズルは皮肉げに口元をゆがめる。
「だからどうした。私は兄だ」
「そうでしょうか?」
いつもアズラクはレイズルの顔色をうかがってびくびくしていた。だが今は、背中に守るべきものを庇うように断固とした態度だった。
「あなたの愛は、いつ崖から落ちてもわからないように見えますよ」
ふっとレイズルは嘲笑う。
「私には、おまえの恋など明日冷めそうなほど弱弱しく見えるがな」
アズラクが唇を噛んでにらみかえしたが、レイズルは踵を返したきり振り返ることはなかった。
氷の粒に打たれながら、レイズルは吹雪の中に立っていた。
辺りは闇に落ちていて、振り返ってもブラン・フォンセの城門さえ見えない。
見えないならいいだろう。レイズルは凍った草の上に膝をついた。
なぜ愛ではつがいになれないのだろう。レイズルは誰よりブランカを愛している自信がある。
儚くうつろう恋に、どうしてたゆみなく降り注いだ愛が負けるのか。
吹き荒れる風の中で天を仰ぐと、まるで神に祈っているようだった。
それがレイズルには酷く忌々しく思える。
「……あなたなどには祈らない、父上」
唾を吐くように、レイズルは語気を荒げる。
レイズルのすぐ側にモルフォビラ侯が立ち、レイズルを見下ろしていた。
「もちろんだ。神が神に祈るものではないよ」
モルフォビラ侯はほほえみながら言う。
レイズルとブランカの父はとうに亡くなっている。けれどモルフォビラ侯を父と呼ぶのはまちがっていない。
レイズルはいにしえの父をにらみながら言う。
「あなたはいつも意地悪だ。なぜまた私たちを兄妹としてさだめた」
風はますます激しくレイズルを打つ。
「ブランカと共に生きられないなら、一人で消えた方がましだ!」
レイズルが叩きつけるように叫んだときだった。
空に白い太陽が昇った。
走るように光が広がって、草の影まで照らし出される。まぶしさに、レイズルは目を細めて片手をかざした。
白しか認識できないような光の中、モルフォビラ侯の輪郭が揺らぐ。
「神々とは意地が悪いものだ」
声が重なって、彼らは告げる。
「もっとも美しい君たちに嫉妬している。君たちが結ばれる日は来ない」
光が強すぎて彼らの顔が見えない。けれど見る必要はなかった。誰も彼も、遠い昔から知っているのだ。
白い太陽たちがほほえむ気配がする。
「いつも見守っているよ。君たちは昔も今も、春の豊穣そのものだ」
その声はまるで父のように、レイズルを優しく包み込んで消えた。
ブランカと手をつないで寝台で横になる。
「おにいさま、来年も会える?」
冬眠に入る前はそうしてほしいと、いつもブランカが願うからだ。
「来年は、ブランカはつがいになっているかもしれないよ」
「約束してくれないと眠らない」
いつも素直なブランカは、このときだけは譲らない。
優しく残酷な目でレイズルを見上げてくる。
「いつからか気づいてた。私はきっと何度もおにいさまを傷つけたのね」
ブランカは手を伸ばして愛おしげにレイズルの頬を撫でる。
ブランカの言う通りだった。いにしえの頃から、ブランカは何度も恋をして、時には結婚もして、兄である自分を嫉妬させた。
「そんな私に、おにいさまは溢れるくらいの愛をくれた。空を舞ってダンスを、頬を寄せてキスを」
ブランカの呼吸が小さくなっていく。目の焦点がぼやけて、涙があふれる。
「ねえ、おにいさま。……また会える?」
子どものような口調で問う妹に、レイズルは抗うすべを知らない。
こつんと額を寄せて、レイズルはうなずいた。
「君の望むままに」
小さく息を吸って、ブランカは目を閉じる。
しばらくの間、レイズルは自らも呼吸を止めてブランカをみつめていた。既に体温は下がり、安心したような顔でブランカは眠りについていた。
蝶が絶え間なく集まって来て、ブランカの周りで宝石のように輝く。
レイズルはブランカの髪を梳いた。
「私の女神。フレイヤ」
夜のあいさつのようにブランカの額にキスをして、いにしえの頃の名前をささやいた。




