中編
レイズルが真っ先にアズラクに抱いた感情は、嫌悪だった。
気に入らないなどという生易しいものではない。忌み嫌うというのが正しい。
細かくウェーブをつけながら頬にかかる黒髪も、秋の大地のような深い褐色の肌も、深い海を思わせる青い瞳さえも汚らわしく感じた。
「おはよう、ございます」
アズラクはこちらの言葉を習いたてらしく、単語ごとに切れたぎこちない話し方をする。それもレイズルには耳障りだった。
モルフォビラ侯がアズラクを連れて来た翌朝、レイズルは朝食の場でアズラクと同席することになった。
一族はみな思い思いの時間に食事を取るが、レイズルはブランカが生まれてからはいつも彼女と食事をしていた。
その二人だけの時間にブランカと共に待っていた少年を、快く思うはずもなかった。
「おはよう」
ブランカの方を向いて短く告げると、レイズルは自分の席についた。
老女の給仕がやってきて、三人の前にカップを一つずつ置いて行く。
豊穣の女神がかたどられた銀のカップには、水で溶いた花の蜜が満ちている。
毎朝これを飲む前に、レイズルはブランカに問う。これは何の花蜜だろう? ブランカは香りで当てる。
二人の小さな遊戯、それは毎日の日課だった。
ところがレイズルが言葉を切り出す前に、アズラクが動く。
事もあろうに蜜に人差し指をつけて、ぺろりとなめた。
野蛮なとレイズルは眉をひそめる。スプーンの使い方も知らないとはまるで旧世代の蛮人だ。そう思いながら目を背けると、視線の先でブランカも動く。
「おいしい」
アズラクがするように蜜に指先をつけて、ブランカはそれを口に運んだ。
「ラズベリーの花蜜ね、おにいさま」
無邪気に笑うブランカを責めることはできなくて、レイズルは仕方なく同じ所作を取る。
「……当たりだよ」
「やった」
一回で手を止めたレイズルと違い、ブランカは指先を花蜜に沈めながら笑う。
「アズラクはどんな花蜜が好き?」
一心に花蜜をなめていたアズラクは、動物がするようにぱっと顔を上げた。
「あ……えと」
褐色の頬を真っ赤にして、口の中で何事かつぶやく。
なぁにとブランカは優しく促した。今まで自分より幼い同族には出会ったことがないのに、それはきちんと年下の子どもを労わる口調になっていた。
「わから、ないです」
「うん?」
「花蜜、あまり、食べません。いろいろなもの、食べます。野菜、肉」
レイズルの眉間のしわが深くなる。花蜜だけを口にして育ったレイズルには、それも野蛮に思えた。
「素敵」
対照的に、ブランカは目を和らげた。
「いろいろなことを知ってるのね。それって、とても素敵なこと」
微笑んだブランカに、アズラクは言葉を失ったようだった。
食事中、ブランカはアズラクに様々な問いを投げかけた。
どこから来たの、から始まって、好きなお花を教えて、まで。
アズラクのぎこちない答えで、レイズルは彼の育った環境を少し知ることになった。
「生まれは、熱砂の、異教の国です。父、母、知りません。自分がモルフォビラも、ずっと知らない」
いつからか、周りの人間はアズラクの時を通り越して老いていくようになったそうだ。
彼らは少年のままでいるアズラクを「悪魔」と呼んで、傷つけるようになった。
「旅、しました。人間のふり」
アズラクは小声で告げる。
その様子に、レイズルは苛立ちが抑えられなくなる。
「何が不満だ」
「え?」
「人間のふりをしたことか。それとも、自分がモルフォビラであることか」
灰色の瞳を光らせて、レイズルは冷ややかに言う。
「もっとも卑しいのは自らを卑しめることだ」
「……す、すみません」
肩を縮ませてうつむくアズラクから目を逸らして、レイズルはナプキンで手を拭う。
ナプキンを放るようにテーブルに置いて立ち上がる。
「ブランカ。この花蜜は気に入らない。口直しをしに行こう。おいで」
レイズルがそう言うと、いつも手を引かれるままに兄についていくのがブランカだった。
けれどブランカは思案して、申し訳なさそうに告げる。
「ごめんなさい。もうちょっとアズラクのお話を聞きたいの」
おっとりとしてはいたが、それはまぎれもない拒否だった。
責める言葉を飲み込んで、レイズルは踵を返す。
部屋の外に出て、廊下を早足で歩いた。
ありし日にブラン・フォンセを賑わした一族の肖像が左右を通り過ぎていく。蜘蛛の巣が張ったまま、手入れがされることもない。
レイズルは自室に入ると背中で扉を閉める。部屋を横切って、レイズルは棚に手を伸ばした。
毎年春になると、レイズルは薔薇の香水を作る。
レイズルと違って、ブランカは冬眠をする。ブランカの一年が麗しいものになるように願いをこめて、レイズルは春に目覚めた彼女に香水を贈っていた。
同じ薔薇園から採った花を使っているのに、不思議なことに年ごとに香りが違う。だから少しずつ残して、大切に保存していた。
今年の春に作った香水を取って、レイズルはそれを手首に傾ける。
急に、一人で取り残される自分の姿が頭に浮かんだ。胸をつんざくような痛みが走って、レイズルは香水の瓶を取り落していた。
ガラスの破片が砕け散り、甘い香りが立ち込める。
とっさに屈みこんで、レイズルは指先を切った。赤い雫が一滴落ちて、傷は跡形もなく塞がる。
けれど落ちた雫は消えなかった。レイズルの血は染料のように鮮やかに瓶を染めて、甘い香りは水を得て強くなったように思えた。
バイオリンの音色が白亜の建物に響きわたる。
尖塔のような白い建物は教会をまねて作られたが、そこに描かれているのはいにしえの神々だ。
世界樹の描かれたステンドグラスから差し込む光を受けて、一族が踊る場所だった。
モルフォビラ侯もまた、そこで音楽を奏でるのを無上の喜びとしている。
彼が旅先で覚えたというしらべは聞き覚えがなく、また遠くまで足を向けたものだとレイズルは思う。
弓が弦から離れて、曲の終わりを知らせる。
「憂い顔だね、レイズル」
よいことだと言わんばかりに、モルフォビラ侯は微笑む。
「弾くかね?」
弓を反転させて差し出す手を、レイズルは振り払った。
「あなたの収拾癖は知っている。あなたの趣味だ。好きにすればいい」
一度言葉を切って、レイズルは侯をにらんだ。
「だが今回は耐えられない」
「アズラクのことかい?」
「あれはブランカを汚していく」
風に乗って、笑い声が聞こえてくる。
ブランカはブラン・フォンセの中をアズラクに案内すると言って、踊るような足取りで出ていってしまった。
「仲良くなれたんだね。良きつがいになるだろう」
「父上!」
思わず怒鳴ったレイズルに、モルフォビラ侯はゆったりと振り向いた。
向かい合った二人は、親子というには年が近すぎる。そして豪奢な金髪のレイズルと控えめな栗色の髪のモルフォビラ候はまったく似ていない。
「おまえがあの子に持つ感情は、愛かもしれないね。でも恋ではない」
「それが何だというんだ」
「恋ができるのはつがいだけ」
「恋はモルフォビラを殺す」
語気を鋭くして、レイズルは侯を弾劾する。
「そんなものは知らなくていい。普遍、永遠。ブランカにはそれがふさわしい」
「レイズル」
ふいにモルフォビラ侯はレイズルを呼んだ。
レイズルと少しだけ似ている灰色の瞳が、飲み込むようにレイズルをみつめる。
「ブランカと同じように、アズラクも冬眠するんだ」
冷水を浴びせられたように、レイズルは震えた。
モルフォビラは眠りを必要とする。ブランカもまた、無理に起きていたときは体に負担がかかりすぎて、その後一年間ほとんどベッドから動けなかった。
「認めなさい。ブランカは私たちとは違う」
だからといって、とレイズルは必死で言葉を続けようとする。
「ブランカはアズラクとなら、同じ時を刻めるんだ」
レイズルが言葉につまったとき、モルフォビラ侯は残酷な事実を告げた。
「おまえは兄だ。つがいではない。どうしてそれが悪いのだ?」
問いかけは、存外に優しい口ぶりだった。
弓を弦に当てて、再びモルフォビラ侯はバイオリンを奏でる。
異国のしらべは、凍り付いたレイズルの心には届かなかった。
ブランカとアズラクは、次第に一緒に過ごす時間が増えた。
おそらくアズラクが外での遊びをよく知っていたからだろう。
動物を探したり、木に登ったり、雨をかぎわけて木陰に隠れる。アズラクはまるで野生動物のように素早く動いた。
レイズルから見れば野蛮だったが、ブランカは新鮮な驚きを持ってそれを受け止めたらしい。
日頃、ブランカは体を冷やしてはよくないからとレイズルに室内へ留められていた。その反動か、ブランカはアズラクと外を駆け回ることに夢中になった。
アズラクの変化もブランカ以上にめざましかった。
うつむきがちだった少年は、ブランカが前に立つと顔を上げた。ブランカが声をかけるとはにかみ、彼女が手を引くといつしか自らその前に進み出て駆けだすようになった。
レイズルは暗い炎のような嫉妬をアズラクに抱きながらも、ブランカをみつめるのをやめられなかった。
おまえは兄だ。つがいではない。
モルフォビラ侯の言葉が胸に響いて離れない。
二階の窓辺に腰かけて、アズラクと中庭を走り回るブランカを目で追う。
アズラクが何かみつけたようだ。手招きしてブランカを呼ぶ。しゃがみこんで、ブランカは頬をほころばせる。
処刑場として使われていた石の台座の下で、アネモネが風に吹かれていた。
夕闇と同じ紫の花に、ブランカが優しく触れる。
レイズルは窓ガラスに指を当てる。呼吸も忘れて、ブランカの輪郭をなぞるようにしてガラスを触れる。
ふいにブランカの横顔をみつめながら立っていたアズラクが身を屈めた。
アズラクは花びらに触れるようにブランカの頬にキスをする。
ブランカはきょとんとして、アズラクを見返した。
次の瞬間に顔を覆って、ブランカはどこかへ走っていった。
レイズルは立ち上がって部屋を横切ると、ブランカの気配の方向に急ぐ。
ブランカは薔薇園の中を行きつ戻りつしているようだった。その足取りは迷い子のように心もとない。
レイズルも薔薇園に入った。花の咲かないこの季節はいばらが絡みすぎないように剪定をする必要があったが、人手が足らずそのままにしてある。
ブランカが怪我をしたらと、レイズルは青ざめる。
入り組んだいばらの森に立ち入ってすぐ、アズラクと出くわした。
「ブランカ、どこに。いばら、危ない」
アズラクもまた青ざめて早口で言う。
レイズルはにらむようにアズラクを見返した。
「おまえは追うな」
「でも」
レイズルは右手を前に出してうなるように告げた。
「傷つけたな、ブランカを。これ以上あの子を傷つけるのは許さない。私の宝だ」
語気を強めて踵を返すと、レイズルは翅を広げて飛びあがった。
日は既に落ちている。空気も冷えてきた。早くみつけてやらなければと、レイズルは目をこらす。
紺色の空の下で赤い燐光をこぼしながらレイズルは飛ぶ。
やがて薔薇園の隅でうずくまって膝を抱えたブランカをみつけた。
安堵の息をついて側に降り立つ。ブランカは顔を伏せたままだった。
「どうしたの?」
レイズルは膝をついて訊ねる。
「私……」
ブランカは頬をおさえてぽろぽろと涙をこぼす。
ブランカは怒ることを知らない。ただ泣くのだ。
「どうしてなの。涙が出る。おにいさま、心配しないで」
雫がブランカの白い頬をつたっていく。
レイズルはそれを見ていると自分の心も砕けていくような心地がした。
「兄様にできることはある?」
どうかできることがあってほしいと、願うような気持ちでレイズルは言った。
ブランカはそろそろと両手を前に差し出す。
レイズルはうなずいて、ブランカを胸に抱きしめる。
髪を撫でて、大丈夫だよとささやく。
一体私はこの子に何ができるのだろう。つがいになれない自分では、痛みを分けてもくれないだろうか。
生まれる前は一緒だったのに、せっかく彼女より大きく丈夫な体を持ったのに、何も意味がない。
もどかしい思いをどうすることもできないまま、レイズルはブランカの背をさすって目を閉じた。




