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蝶と北欧神話  作者: 真木
1/3

前編

 いにしえの頃、湖の水が凍りついた夜には神々が下りてきた。

 レイズルは窓枠に腰かけて、ベッドの方をみつめていた。

 黒い毛皮のシーツの中、白く長い髪が上下している。さながら漆黒の夜に光がたゆたうようだった。黄金を散りばめたような金髪を持つレイズルとは対照的だ。

 彼女には色彩というものがほとんどない。どこもかしこも白く、羽毛のように柔らかい。

 レイズルは声をかけようとして迷った。

 彼女は時間になったら起きると意気込んで眠った。レイズルは彼女のおだやかな眠りをただみつめていたいとも思う。

 けれどこのまま明日になれば、起きられなかった自分を悲しんでぽろぽろと涙を流す。

「ブランカ、行こうよ」

 彼女の泣き顔を思い出して、レイズルは言葉を続けた。枕元に手をついて身を屈める。

 生まれた頃から変わらない真っ白な睫毛が動く。その奥から彼女が持つ唯一の色彩、淡い空色の瞳が現れた。

「おにいさま」

 ブランカははしゃいだ声を上げて起き上がる。

 目を輝かせる妹の額に、レイズルはそっと自らの額を当てる。

「今日は熱くないね」

「ずっとおとなしくしていたもの」

「いい子」

 鼻の頭にキスをして、レイズルは脇に抱えた外套をブランカに着せかけた。

 ブランカの指に自らの指をからめて、レイズルは窓から外気の中に踏み出す。

 空気がしびれるような気配がして、レイズルの背中には紅の四枚の翅が開いていた。

 ほの暗い炎を思わせる翅は輝きながら羽ばたいて、闇を割って飛んでいく。

 手をつないだブランカは、待ちきれないというように声を上げた。

「今日は見られるかしら」

「きっとね」

「ひらひら踊っていらっしゃる?」

 ブランカの弾んだ声がレイズルの耳をくすぐる。

 夜の海を泳ぐように二人は飛んで、やがて大木の幹に降りた。

「駄目だよ。ちゃんと着ていないと」

 ブランカが外套を脱ごうとしているのに気づいて、レイズルは慌てる。

「おにいさまが寒いもの」

 はいと外套を差し出すブランカに、レイズルは微笑んだ。

 レイズルは首を横に振って、外套をもう一度しっかりとブランカに着せかける。

「兄様は寒くないんだ。兄様はブランカよりずっと丈夫だから」

「おにいさまだから?」

 レイズルはつないだ指先を持ち上げて、眩しいものにするように目を細めた。

「そう。兄様は神様から丈夫な体を授かったんだ。次に生まれてくるブランカを守るために」

 大空を仰いで、レイズルは紅の瞳を笑みの形に彩る。

「……来るよ、ブランカ」

 まるで太陽が昇ったように、眩しいばかりの光が舞い降りた。

 ブランカが歓声を上げて空をみつめる。

 空をはためく光のカーテン。無数の色が織り込まれながら入れ替わるオーロラが、二人の前に広がっていた。

 光の筋は上ったり下りたりを繰り返す。気ままな蝶のように、ひとところに留まることを知らない。

 さながら、夜の闇と踊っているように見えた。

 きゅっとレイズルの手を握ったブランカに、レイズルは彼女の意図を察した。

 レイズルは左手を差し出した。ブランカはお辞儀をして、兄の手に右手を預ける。

 レイズルがブランカの背中を抱えたかと思うと、二人は揃って空中に足を踏み出していた。

 一、二、三で回る。形式は最初だけだった。

 少年少女がそうであるように、二人も自由なダンスが好きだった。

 二人で手をつないで跳びまわり、村の民たちがするように陽気なステップを踏む。気が付けばブランカは両腕をレイズルの首に回して、くるくると回っていた。

 凍った湖の上に降りたって、二人は一歩離れてお辞儀をする。

 途端に笑い出した二人の上で、光の合唱が続いていた。





 レイズル・モルフォビラは、たゆたう時を一族と渡って来た。華やかなる社交界を、彼らのもう一つの姿である蝶のようにひらひらと。

 花の蜜だけを口にし、三百年も少年のまま過ごした。

 一族は青年に達すると時を止めるのだ。

 ただモルフォビラの一族は、子をもうけると役目を終えたように消える運命にあった。

 運命づけられた衰退から目を逸らすように遊戯にふける一族の中で、レイズルは育った。

 レイズルが生まれた頃、一族は半壊した灰色の古城で暮らしていた。

 五百年前に名のあるヴァイキングが財を蓄えたが、やがて置き去りにされ、朽ち果てた建物だった。

 「ブラン・フォンセ」、セピア色と名付けられた古城が、一族の最後の社交界だった。

 一人、また一人と同族が消えていく。そのことを憂える心も痺れてきた彼らに、ある日小さく弱いモルフォビラが生まれる。

 それがレイズルの妹、ブランカだった。

 明るい歌声が崩れかけた壁に反響する。レイズルは草むらに寝そべって目を閉じながら、その歌に耳を傾けていた。

 ふいに歌がやんで、レイズルは目を開く。傍らに座るブランカを見上げると、彼女の表情に憂いが浮かんでいた。

「どうしたの?」

「おとうさまはいつお帰りになるのかしら」

 目を伏せて、ブランカは小声で付け加える。

「それとも」

 レイズルはくすっと笑って身を起こす。

「父上は旅がお好きなんだよ。みんなそうだろう?」

 今は冬枯れの季節だが、春になればこの辺り一面の花畑に蝶が集まる。

 蝶たちは花を求めてどこまでも飛んでいく。

 蝶と同じように、かつてはモルフォビラの一族も花を求めて大陸のどこへでも飛んだものだった。

「みんな?」

 不思議そうなつぶやきを聞いて、レイズルは自分の失言に気づく。

 ブランカはありし日にブラン・フォンセで社交界を作っていた大勢の一族たちを知らない。

「昔のこと」

 レイズルはふっと息をもらして言葉を切る。

 そう、しょせんは昔話。レイズルはそう思うようにしている。

 積み重ねることの嫌いな一族だった。彼らはみな熱病のような恋の末に生まれ、気ままに空を舞い、そして消える。

 彼らがレイズルに教えた数少ないことは、自由であることだった。

 けれどレイズルは自由を愛してはいない。

「昔のお話、聞きたいな」

「いいよ。ブランカのお願いだものね」

 レイズルはブランカの放つ束縛の糸に絡まっていたいと思う。羽毛のように柔らかいそれの中で、いつか窒息することを夢見ている。

 寝そべってお話をねだるブランカを見やる。レイズルは顎に指を当てて物語を語り出した。

「昔々、春の女神様はたくさん恋をしたんだって」

 言葉を紡ぎながら、ブランカの白い髪に指を絡ませる。

「美しい女神様のことが、神様たちは好きだったから。冬になって女神様が眠るたび、神様たちは女神様の思い出を消してしまうんだ」

「女神様は恋人も忘れてしまうの?」

 心配そうに見上げるブランカを、レイズルはみつめ返す。

「そう。春に女神様は目覚めるたび、蝶になって恋をした。世界中に飛んで、誰かを探した」

 ブランカは体を起こした。

「少しかわいそう」

 レイズルは苦笑して、そうだねとつぶやいた。

 モルフォビラ一族の起源といわれる昔話は美しく、とても残酷だ。

 女神の恋が成就するのは、どれほどの時を要するのだろう。

 もし出会ったとして、共に暮らせるのだろうか。……もういにしえの神々は死に絶えて、彼女が帰るところはないというのに。

「おにいさまも蝶なのでしょう? いつか旅立ってしまうの?」

 ブランカの声に我に返る。視線を落とした先には、不安を浮かべた空色の瞳があった。

 レイズルはそれには笑って答えることができた。

「兄様はどこにも行かないよ」

 誓いの言葉のように告げて、レイズルはブランカの肩を支えながら彼女を起こす。

 レイズルは白いドレスの上から、ブランカの左肩の少し下辺りに触れる。

「ブランカのここにも二枚の翅があるんだ。ブランカも蝶なんだよ」

 びっくりしてブランカは自分の背を振り返る。けれど、自分の背中を見ることは叶わない。

「翅の出し方を忘れてしまっただけなんだ。代わりに見せてあげよう」

 レイズルの背から燐光がこぼれ、四枚の翅が開いていた。

 昼でもなお夜をまとっているような、鈍色を帯びた赤い翅だった。背につながることなく、光をこぼしながら浮いている。

「翅の内側を見てごらん」

 ブランカが広げた翅の内側をのぞきこむと、そこに隠れるようにして白い翅が二枚あった。

「小さい」

「この二枚翅だけは成長しなかったから」

 白い翅は透けるほど頼りなげで、ブランカは触れるのをためらう。

「覚えてるよ。生まれたてのブランカの背中にも、同じ翅があった。兄様は母上のお腹の中で、四枚あったブランカの翅を二枚余分にもらって生まれてきてしまった」

 どうしてなのか考えたとき、レイズルはすとんと理解した。

 子を産むとともに消えるモルフォビラの一族。同じ母から二人生まれたレイズルとブランカは、元々双子だったのだろう。

 レイズルの背に生えたブランカの片翼は、二人が一人だった証だ。

「ブランカは兄様の半身。一人ではどこにも旅立たないよ」

 立ち上がると、北風がレイズルの金髪を乱した。

 風は南へ向かっている。だが、とレイズルは思う。

 自然の摂理には従わない。いずれつがいとなって消えるモルフォビラの運命など受け入れるつもりもない。

 自分はブランカの影となって一生を寄り添う。そう決めて久しい。

 レイズルは屈みこんで優しく告げた。

「そろそろ中に入ろう。お昼寝の時間だよ」

 レイズルは睡眠も休息も必要としないが、ブランカは違う。一日に数度、体を温めて眠らなくてはいけない。

 ブランカはうなずいて、レイズルの左腕に右手を絡ませる。

 城壁の上で、破れた戦神の旗が揺れている。今は争いからも忘れられた地だが、古い神々の痕跡はそこかしらに残る。

 この城も、もうレイズルの一家と使用人しか住んではいなかった。

 石造りのアーチをくぐって、二人がブラン・フォンセの中に足を踏み入れたときだった。

 ブランカが振り向く。レイズルも体の向きを変えた。

 蹄鉄の音が近づいてくる。めったに通らない馬車が門の前で止まった。

 紺の長衣とブーツ姿の男が降りたつ。栗色の髪を結って背まで垂らした青年だった。

「おとうさま!」

 ブランカは弾けるように笑った。

 草むらを駆けていったブランカを、モルフォビラ侯爵は腕を広げて抱き上げる。柔和に微笑んで、ブランカの頬にキスを落とした。

「お帰りなさいませ」

 モルフォビラ侯は遅れて向かったレイズルに一瞥をくれる。レイズルは皮肉じみた笑みを浮かべて一礼した。

 ありし日ならば彼を王と呼ぶべきだろうが、今となっては辺境侯爵の地位しか持たない。

 ただモルフォビラ侯爵は、風変りな旅の貴族の名を気に入っているようだった。一年の内、ブラン・フォンセにいるのはほんのひとときで、ひらひらと諸国を渡り歩いている。

 モルフォビラ侯はレイズルに微笑んで、ブランカにも同じ微笑みを贈る。

「ブランカ、今日は特別な日だ」

 甘い声で、モルフォビラ候はブランカにささやく。

 不思議そうに首を傾げたブランカを下ろして、彼は振り向いて馬車の中に手を差し伸べる。

 中に誰かいるようだった。ためらう気配がして、やがておずおずと姿を見せた。

 異国の少年だった。年はブランカと同じくらいで、まだ十二、三歳ほどに見えた。癖のある黒髪を短く切り揃えていて、褐色の肌をしていた。

 青い瞳が、サファイアのように強く光っている。

 ブランカがひるんだ気配がした。少年も畏れに似た感情を浮かべて、ブランカをみつめ返す。

 立ちすくんだ二人の間に入って、モルフォビラ侯が言った。

「アズラクだよ」

 モルフォビラ侯は少年の肩に手を置いて、聞き慣れない響きの名前を告げた。

「君のつがいとなるモルフォビラだ」

 レイズルは目を見開いて、信じられないものを見る目でその少年を見た。


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