雲が曇る日曜日
蝶の夢のおまけとしておなじく大学4年時につくりました。
雲が曇る日曜日、おれは電車に乗った。曇りの日の雲は、どことなく不機嫌に曇る。
電車の 中には、あまり人は乗っていなかった。だいたい16人前後だったと思う。ある人は、本を読み、ある人は眠り、ある人はある方向を見るともなく見ていた。それぞれが、それぞれの思いを胸に、それぞれの世界を作っていた。ここは俺様の世界だから入ってくるなよ。おれはそんな人々を見るたびに違和感を覚える。電車という空間で、それぞれが暗黙のうちに己の境界を作り、自分の縄張りをめぐって、静かに呼吸をする。
そこには、表情がなく、交流がなく、あるのは、ただただ重たく流れる大きな大きな時間だけである。
おれは電車に乗っている人達の姿を見ながら、考えるともなく考えていると、一人の子供、いや、正確には子供の無邪気な心を持った青年が、右手に風船を持っているのに気付いた。
彼は、赤色のTシャツ(真ん中には、車の絵)ジーパン、黄色の帽子、そして、刀を持ったキャラクターもののスニーカーを履いて、電車の椅子とドアの間に挟まれるような感じで立っていた。
彼のことをよく覚えていたのは、彼が特徴的な格好をしていたからだけでなく、青年になっても子供の心を持っているという、生まれながらの才能を有していたからなのかもしれない。
おれは暫く彼を見ていたが、彼はドア側のつかみ棒を持つ左手の位置を動かす以外にこれと言って動くことはなかったし、それに、彼に注目するにはあまりにも眠た過ぎた。
なぜなら、今日は日曜日であり、こんな、曇った日曜日は、家で、内容のないアクション映画を、ビールでも飲みながら、見ているべきだったからだ。そんな日曜日の楽しみを、一本の電話が奪ったのだ。
「今日、スキーにでも行かないか?こんな秋の日に紅葉を見ながらスキーをしようよ!うんぬんかんぬん。」
おれは、ためらったが行くことにした。なぜなら、彼の言っていることに興味がわいたからだ。あるいは、おれに電話をした彼は嘘をついていたのかもしれない。しかし、嘘をついていたとしても、その時のおれは、その嘘を嘘だとは思わなかった。いや、正確には、嘘だと信じたくはなかった。
そのようなことを思い返しながら、電車の中でうとうとしていた。
うとうとして、まぶたが、シャッターを下ろそうとした時、青年の持っていた風船がどんどんどんどん大きくなっていくのが見えた。それは1秒間に、直径が3cmずつ伸びるという速さだ。
閉じかけたシャッターは、おじさんが、シャッターを完全に閉めるのを忘れてどこかへ行ってしまったかのように、少しだけ開いたまま止まっていた。
その風船は、どんどんどんどん大きくなり、今では、車内の人がいないスペースは、ほとんど風船が支配するようになった。
どんどんどんどん大きくなる風船。どんどんどんどん狭まる空間。
シャッターの隙間からそんな光景を眺めていると、おれはあることに気付いた。
乗っている人が減っているのだ。
俺の世界に入ってくるなよと叫んでいた人々は、風船の圧力に屈し、自分の世界とそれ以外との境界を崩されていった。
そんな状況の中おれは、動くことはできなかった。
動くにはあまりにも眠た過ぎたのだ。やれやれ、こんなことなら、何も考えていないアクション俳優に殴られた方がましだったな。だいたい何で、おじさんは シャッターを下ろさないなんていう無用心なままどこかに行ってしまったのだろうか。そんなまとまらない考えを廻っていると、ドアをノックする音が聞こえ た。
コンコンコンコン
ドアをノックする音が聞こえると、おれの世界と外を繋ぐドアは開かれていった。
そのドアは、今までに数回しか開いたことのないドアだ。
感情が高ぶったとき、とてつもない悲しみにうちひしがれたとき、自分という存在の意味を考えたとき、自分を超えた大きな存在に直接触れたとき、そんなときに、そのドアは勝手に開いていた。
おれは、ドアが勝手に開くのが怖かった。自分の理性で自分を抑えられなくなってしまうのが怖かった。ドアが開いたとき、自分と自分以外の境界が曖昧になったときに、自分という存在が自分を超えてしまい、自分が何なのかわからなくなってしまうのが怖かった。
だから、ドアが勝手に開かないよう、おれは知識をつけ、理論武装してきた。
あるいは、ドアの存在を記憶の彼方に置くことで、ドアを錆び付かせようとしてきた。
自分の世界と外とが触れ合わないよう、毎日少しずつ、ドアを強固にしてきたのだ。
しかし、今回はいつもの感じと少し違う。
何か、暖かいものに包まれているような感覚なのだ。感情の爆発もない。素直で神聖で純粋で無垢で。浅はかで、大きくて、ちっぽけで優しくて。
感情の起伏のない穏やかな気分だ。
包まれている。おれは、暖かい何かに包まれているような感じがした。もしかしたら、おれは風船の中に入っていたのかもしれない。
暖かい風船の中でうとうとしていると、おじさんは、静かにおれのほうにやってきて、ゆっくりとシャッターを下ろした。
気が付くと、おれは電車の中で座っていた。
乗客は何人か乗り降りしていたが、これといって大きな変化はなかった。
おれは、周りを見渡してみた。電車の中で感じたような違和感が薄れたように感じた。
そこには、青年の姿はなかった。
青年がいた場所には、彼がそこにいたというような、ぬくもりもなく、電子煙草を吸ったおじさんが眉間にしわを寄せながら新聞を読んでいた。
おれは、立ち上がったばかりのコンピューターを労わるように、目をつぶって、ゆっくりと、そしてしっかりと、大きな大きなあくびをした。