セッション58 追憶
刹那、死の闇に沈む。その最中に映像が頭に流れてきた。
目の前にいるのは連邦議員の男――蛇宮掛爪だ。場所はどこかの応接室だろうか。渋い色の和服姿で椅子に腰掛けている。顔色は見るからに蒼白で、苦悶に歪んでいた。
「……本当に、それで娘は助かるのだな?」
蛇宮が震えながら僕に問い掛ける。
「ええ、助かるわ。魂にかけて保証する」
否、僕ではない。蛇宮に回答したのは僕ではなく、別の声だ。
この声は聞いた事がある。ロキだ。声と視点から察するにこれはロキの記憶か。しかし何故、今ロキの記憶を僕が垣間見ているのだろう。
「錬金術に長けた人外種族――蛇人間。その技術力を土産に数代前の蛇宮家は山岳連邦に取り入った。しかし、それを蛇人間の種族神である『蛇神』イグは許さなかった。イグの国である二荒王国を抜ける事を認めなかった。
イグは呪いを掛けた。数代の後――蛇宮家が最も栄えた時に蛇にする呪いを。四肢を委縮させ、知能を低下させ、ただの蛇にする呪術を。そして、当代でその時が来た。貴方の娘ハクがそれに選ばれた。見てしまったのでしょう? あの娘が生まれた時、あの娘の額にイグの印たる白い三日月の紋様があったのを」
極寒の地にいるかの様に蛇宮の震えが強まる。無言だったが、その態度こそが何よりの肯定を示していた。
「そして、呪われているのは貴方も同様よ。早くてハクが十歳になる前、遅くても十五歳を迎える頃には呪いは成就する。貴方達二人とも蛇となってイグの下に戻される運命にあるわ」
「……それを貴方ならどうにか出来ると?」
蛇宮が縋る目で僕を見る。僕はそれに鷹揚に頷いた。
「私が宿す獣性――蛇王ヨルムンガンドを憑依させる。蛇神の呪いを蛇王の神殺しの毒で蝕むのよ。そうすれば、十五年後でも二十年後でも呪いは起動せず、ただの蛇に退化せずに済むわ」
けれど、
「ヨルムンガンドは一体だけ。つまり、貴方か貴方の娘のどちらか一人しか助けられないの。故に最終確認をさせて貰うわ。本当に『貴方の娘を助ける』で良いのね?」
「……ああ。私には要らない。娘を……とにかく娘を頼む」
「ええ。神と魂と魔術の契約に従い、ハクを救ってあげる」
頷き、ロキの視点が上がる。どうやら今まで椅子に座っていたらしい。テーブルを迂回してロキが蛇宮に近付く。
「では、対価を支払って貰うわ。貴方に『狡知の神』の器になって貰う」
『器』とロキが言ったことで、ステファの言葉を思い出す。『ニャルラトホテプそのものは幽霊の様なものであり、実体がない。その為、常に何かに憑依している』と彼女は確かに言っていた。
「器を失えばニャルラトホテプは霧散し、次の器の適合者が現れるまで霊脈の中で待つしかない。けれど、私だけは違う。『獣憑き』の応用で私は誰が相手でも即時憑依出来る。適合者を待つ必要はない。今の器は老朽化が進んでいてね、ちょうど次の器を探していた所なのよ」
ロキが蛇宮の隣に立つ。手を伸ばせば届く距離だ。
「……言っておくけど、憑依されたからといって貴方が死ぬ訳ではないわ。貴方は私と溶け合って私の一部となる。九〇パーセント以上は私になるけど、数パーセントは貴方が残り続ける。貴方の娘ハクを見守り続けたいという願いは残るのよ。ハクを守れないという心配だけはする必要はないわ」
それを聞いた蛇宮の震えが少し収まった。彼は本当に娘の事を大事に思い、そして、その為に自身が消滅する事を受け入れているのだ。
「それでも、最後にもう一度だけ訊くわ。対価を支払ってしまって良いのね?」
「……ああ。もう手は尽くした。貴方が掲示した案しか娘を救う手立てはなかった。だから、良いのだ」
「……分かったわ。それじゃあ――」
ロキが蛇宮に手をかざす。直後、視界が暗転した。
◇
次に目を開けた時は、闇の中にいた。死の闇とはまた違う黒だ。
「ひっく……ひっく……ううっ、うぁああ……!」
少し離れた場所にハクがいた。ハクは蹲って泣きじゃくっていた。返り血に塗れた自身と罪悪感に怯え、攻撃された痛みも合わさって感情がぐちゃぐちゃになっていた。
そのハクの周囲を巨大な蛇が蜷局を巻いていた。全長一〇〇メートルはあるだろう蛇竜だ。ハクを囲む様は彼女を守る砦の様だった。
恐らくだが、先程の追憶はハクに憑依する前の――まだロキの中にいた時の蛇王ヨルムンガンドの記憶だったのではないだろうか。『捕食』した際に精神がリンクし、記憶を読み取ってしまったのではないか。
あの蛇竜がヨルムンガンドで間違いないだろう。ああやって十数年間、ハクの中にいて蛇神の呪いを跳ね除け続けてきたのだ。
「……成程な。お前はそうやってずっとハクを守ってきたのか」
それ自体は大儀だ。だが、
「お前が身体を乗っ取って、ハクが望んでねー殺戮に手を染めていたんじゃ蛇神と悪辣さが大差ねーだろーが! 何やってんだ!」
父親の命令でやったんだろうが、なんて無様だ。十数年の守護も台無しじゃねーか。それで良く我が物顔でハクの傍にいられるな。
「保護者面してーなら本来の務めに戻れ、蛇王。恥を知ってんならな!」
「SHAaaaaa――!」
ヨルムンガンドが猛り吠えて僕に飛び掛かる。牙を突き出し、毒液が散らせながら僕へと顎を広げる。その噛み付きは僕の指摘への反論代わりか、それとも痛い所を突かれての逆ギレか。いずれにせよ、あの牙に噛まれれば僕はあっさりと死ぬだろう。
しかし、それは、
「もう我慢しなくて良いぜ、我が神」
シュブ=ニグラスがここにいなかったらの場合だ。
僕の背後の闇から巨大な蹄が現れる。偶蹄目の蹄だ。蹄の先にあるのは闇よりもなお黒い雷雲。雲には山羊の眼球が幾つも浮かび、触手と共に蠢いていた。
僕が今いるこの場所は、いつも僕が『捕食』した日に見る夢の中だったのだ。飛竜や象の怪物が標本の如く並ぶ墓所。シュブ=ニグラスの領域だ。
「僕の神様は母性本能が強くてな。泣いているガキを見て、黙っていられる訳がねーだろ」
シュブ=ニグラスがヨルムンガンドを冷酷な目で見下す。シュブ=ニグラスの全長は二〇〇メートル。ヨルムンガンドを縦に伸ばしても、その倍だ。ヨルムンガンドが思わず委縮し、飛び掛かる途中の姿勢で硬直する。だが、遅い。最早彼女の蹄は止まらない。
神々の母が蛇王を踏み潰した。




