セッション27 三者
我――三護松武は虹の球体が藍兎を押し潰すのを見た。
球体が大地を捩じり潰し、霧散する。球体に物理的な破壊力はないらしく、地面が抉れている事はなかった。しかし、殺傷力がない訳がない。球体が消えた後、藍兎は地に伏していた。
藍兎の肉体は朽ちて乾燥し、所々の骨が剥き出しになっていた。目はどろりと澱み、四肢は僅かたりとも動かない。隣にはギリメカラの死体があったが、そちらも同様の無残さを見せていた。あの球体は生物だけを破壊する性質がある様だ。
古堅藍兎は死んだ。どうしようもなく。
「藍兎……さん……?」
向こう、ステファが地面に転がった身を起こしていた。藍兎が打ち上げてくれたお陰で彼女は球体に呑まれなかったのだ。
「藍兎さん!」
藍兎の死体を認めたステファが一心不乱に走る。その手は真っ直ぐ藍兎へ伸びていた。
しかし、彼女の手は藍兎まで届かない。イタチが彼女を羽交い締めにして止めたからだ。
「何をするんですか!」
「貴様こそ何をするつもりだ! 藍兎に触れるつもりではあるまいな!?」
イタチの言葉に恍惚としていた頭が覚める。
藍兎の蘇生能力は触れたものの生命を奪う仕組みだ。それが死んでからどれ程の時間まで有効か分からないが、ステファは藍兎に触れる事で自分の命を差し出し、藍兎を蘇らせようとしたのだろう。
「馬鹿者、これ以上戦力の低下を甘んじて見ていろと!? 五体満足で生き残ったのだ。今はその四肢を安宿部とかいうゴブリンの長共を倒す為に使うべきであろう!」
イタチはこんな状況でも冷静だった。冷静に状況を把握し、少しでも勝率の高い方法を考えていた。本当に生き返るかどうかも分からない藍兎の元へ走るよりも、長共に向かって行った方がまだ勝ち目があると言っているのだ。
だが、それを彼女が聞く筈もない。
「私が死ねば藍兎さんが助かるのに、見捨てろって言うんですか!?」
ああ、やはり彼女は狂っている。
今の一言には死への恐怖が一切ない。人を救う事に固執して、自分の命を捨てる事に躊躇がなくなってしまっている。保身を考えられなくなってしまった人間は正常ではない。異常――狂気の沙汰だ。
……まあ、自滅を厭わない精神は我も人の事を言えないが。
今も興奮が収まらない。これから殺されるというのに、大邪神召喚を目の当たりにした幸運に感謝の念しかない。魔術依存症が恐怖を麻痺させている。今後の展開なんて分かり切っているのに抵抗する意志が湧かない。
「ふん」「仲間が」「死んで」「錯乱」「したか?」
ステファの様子を見ていた安宿部がそう嘲る。
藍兎の蘇生能力を知らない彼からすれば、ステファが支離滅裂な事を叫んで死体に駆け寄っている様にしか見えないのだろう。
「案ずるな」「すぐに」「後を」「追わせて」「やる」
安宿部が天に指を立て、次に我々に指を差す。ヨグ=ソトースが一際強く光る。また球体を射出するつもりだ。天を見上げれば蠢く球体が三つ。あの三つ全てが落ちてくれば、山頂は埋め尽くされる。逃げ場はない。
ここまでか。そう思った時だった。
ボゴンッ、と不吉な音が耳朶を叩いた。
「……」「……?」「何だ……?」
何が起きたのかはすぐに分かった。クレーターだ。藍兎が伏している周辺の大地が、抉られていたのだ。否、抉られたというより削られたという感じだ。凹んだ分の土塊がどこを見渡してもないのだから。
しかし、何が起きたのかは分かっても何故起きたのかは分からない。誰も何もしていない筈だ。急にクレーターが出来る様な真似など誰も……
「……まさか。いや、まさか」
天啓の様にある可能性が思い当たる。
クレーターの中心には藍兎がいる。それはつまりクレーターの原因、あるいは起点が藍兎である事と考えられる。だが、そうなると、これは、
「藍兎が、大地を喰った……?」
『ガイア理論』というものがある。地球と生物が相互に関係し合い環境を作り上げている事をある種の生命活動と見做す――端的に言えば、地球を巨大な一つの生命体とする考え方だ。
藍兎の蘇生能力は生命を奪う能力だ。であれば、地球を生命体と見做して大地という肉を喰らったとでもいうのか……? 凹んだ分の土塊がなくなったのは、藍兎が吸収したからとでも……?
ギリメカラの死体もない。藍兎が喰ったのか? 既に死んでいるものさえも栄養にしようと?
「理解の外側だ。だが、もしそうならば――」
――素晴らしい。
「くっくっくっ……クヒヒヒヒヒ……イヒヒヒヒヒ! イーヒッヒッヒッヒッ! イヒッ、イヒッ、イヒッ!」
歓喜が止まらない。
素晴らしい。ヨグ=ソトース召喚に藍兎の怪異。この世にはまだまだ我には解明出来ない深淵がある。これに歓喜せずして何に歓喜すべきなのか。
次から次へと起きる神秘に口元が緩む。と、更なる変化が起きた。
クレーターに漆黒の大穴が開いたのだ。
◇
俺様――阿漣イタチはそれを見た。
大地に広がる巨大な穴。否、それを穴と呼んでいいのだろうか。底どころか僅かな深さすら見えない。平面的な闇と言うべきか、墨汁を地面に流したかのような黒一色だ。
藍兎はどうなったのかは分からない。あの闇に呑まれてしまった。
その闇から何かが浮き出て来た。
黒雲だ。ただの黒雲ではない。山羊か羊の様な目を幾つも持つ生物的な雲だ。黒雲の内側では稲妻が轟き、奥がどうなっているかは窺い知れない。
続いて足が見えた。黒い蹄だ。蹄の先は二つに割れている。これは偶蹄目の特徴だ。蹄は大地ではなく空中を踏み締めていた。脚部以外にも紐の様な触手がのたうち回っている。
その全長は二〇〇メートルにも及ぶだろうか。
明らかに人知を超えた生物――怪物だ。
「お、おお……! なんと、なんと、なんと……! イヒヒヒヒ、ヒャーハハハハハッ!」
怪物を見上げ、三護が嬌声を上げる。先刻から興奮しっ放しだ。血圧が上がり過ぎて卒倒しやしないだろうな?
いや、それはともかく、三護はこの怪物についても知っているのか。
「応とも。知っている! 知っているともよ! 是なるはシュブ=ニグラス。神々の母にしてヨグ=ソトースの妻よ!」
「ヨグ=ソトースの妻……!」
ヨグ=ソトースは今、空に坐すあの神の名前だったか。その妻が現れるとは。
全く訳が分からない。だが、俺様の理解を他所に状況は進む。
全貌を現したシュブ=ニグラスは高く高く飛んでいく。その先にいるのは彼女の夫だ。如何に二〇〇メートル越えだろうと、空一面に広がるヨグ=ソトースに比べれば豆粒みたいだった。
シュブ=ニグラスとヨグ=ソトースが接触する。
瞬間、空が激しく輝いた。あまりの眩しさに目を瞑るだけでなく顔も背けてしまう。光が去ったと確信して目を開いた時には、ヨグ=ソトースもシュブ=ニグラスもいなくなっていた。空はいつも通りの青さだった。
具体的に何が起きたのかは分からない。だが、過程は分からずとも結果は分かる。
シュブ=ニグラスがヨグ=ソトースを退散させたのだ。
「馬鹿な……」「馬鹿な」「馬鹿な」「馬鹿な!」「何が起きたというのだ!?」「私の」「私のヨグ=ソトースが!」
安宿部が騒いでいるが、どうでも良い。それよりも俺様の視点はある一ヶ所に釘付けにされていた。
山頂に出来たクレーター。闇は消え失せ、地面が帰って来ていた。
そこに、藍兎が横たわっていた。
無傷だ。ヨグ=ソトースの球体で朽ちた肌も剥き出しの骨も修復されていた。瞳は閉じているが、浅く呼吸をしている事から生きている事が分かる。蘇生したのだ。
背筋にゾクゾクとしたものが走る。
恐怖故にではない、歓喜故にだ。
古堅藍兎。正体の見えない奴だとは思っていたが、まさかここまでの隠し玉を持っていたとは。蘇生能力という神の権能に加え、シュブ=ニグラスという神そのものを召喚する力。これを利用出来れば、どれ程の戦力になるか。あの『悪心影』をも討ち倒す一手になり得るかもしれない。
得体が知れない? だから何だ。
邪神が関わっている? それがどうした。
強過ぎる力は持て余す? 覇王に御せぬものなど存在しない!
これは素晴らしい逸材だ。
これは素晴らしい兵器だ。
誰にも渡してなるものか――誰にも! これは俺様の力だ!
◇
私――ステファーヌ・リゲル・ド・マリニーには何が何だか分からなかった。
ゴブリン共が全員死んだ事も、ヨグ=ソトースという邪神が召喚された事も、安宿部の言っている事も、イタチが高笑いしている事も、藍兎の蘇生も。
何もかも急展開過ぎて理解が追い付かなかった。
そして、理解出来なくてもどうでも良かった。
この人が生きている。私にとってはそれだけで充分だった。
「良かった……良かったです、藍兎さん……!」
藍兎の体を起こして抱き締める。
正直、ここにいるのが他の誰であっても、私はその人を救う為に簡単に命を投げ出しただろう。それでも、この喜びはただの他人では得られない感情だ。仲間が、大事な人が救われたという喜びは掛け替えのないものだ。
温かい。藍兎の体温は確かにある。
涙が一筋、自分の頬を垂れて落ちた。
「そんな……」「私の計画が」「……私は」「どうしたら……」
呟く声に顔を上げれば、茫然自失としている安宿部の姿があった。
彼の目的が何だったのか、終ぞ私には把握出来なかった。過去に帰りたかった事だけは分かったが、ヨグ=ソトースが退散した今、それは叶わない。狼狽える今の姿に同情しそうになるが、しかしその余地はない。
彼は殺した。談雨村の住民を、理伏の両親を、同族であるゴブリン共を――藍兎も。彼は大勢の命を奪った。同情の余地はない。
捕縛するか、抵抗するならこの場で殺すしかない。捕縛したら市国に差し出すべきか。
「さて……」
同じ考えなのかイタチと理伏が安宿部に迫る。
否、理伏は同じ考えではない。あの抜き身の日本刀の様な目付き。あれは安宿部を今すぐに殺そうという目だ。
無理もない。彼女にとっては親の仇だ。
「ひっ」「ひぃ……!」「くっ」「来るな!」
怯え、後退る安宿部。だが、イタチ達は歩みを止めないし、安宿部を守ろうとする者もいない。安宿部を守る者達は彼自ら使い潰してしまったのだから。
自分はどうするか。誰が相手でも救うのが私の発狂内容だ。普段エネミーの命を奪うのは、それを救うよりも殺した方が犠牲者の数が少ないと確信している故だ。安宿部が無害になったと断言出来るのであれば、私は――
――救わなくては。
立場は関係ない。感情も無視しろ。お前は救うだけの機構だ。
考えるな。行動しろ。救え。救え。救え。救え。救え――!
「…………」
狂気と信仰を胸に決意する。藍兎を地面にゆっくりと寝かし、立ち上がる。その時だ。
「え……?」
「――」「……え」「……?」
その光景に誰もが自身の目を疑った。安宿部すらもだ。
安宿部の一人が、別の安宿部の心臓を手刀で貫いていた。




