セッション93 国奪
僕の意識が肉体に戻る。千里眼は途絶えていないが、前方の視界のみとなり、残りの空間は闇一色に閉ざされた。背後には我が女神シュブ=ニグラスが佇んでいる。
闇の中に何かが浮かび上がる。環状列石だ。現実では僕を囲む石群が淡い光を放って存在を主張していた。
「うおっ、ととと……!」
突然、僕の身体が僕の意志に反して動き出した。偃月刀を手にしてくるくると舞を踊る。円を描く動き。まるで神儀の行う巫女のようだ。
三護が僕と場に仕掛けていた魔術だ。霊脈より汲み上げた魔力を使って環状列石が交信を繋げ、繋がったら僕が舞で交信相手を祀る。舞の動き方は三護が予め僕にインプットしてあり、その入力内容に従って僕の身体が自動で動く。
この交信に時間が掛かった。計画の第三段階とは交信が確立するまでの時間稼ぎだったのだ。
「■■■■■、■■■■■」
環状列石が鳴動し、契約内容を読み上げる。低くくぐもっている事とそもそも日本語ではない事も相俟って僕には何を言っているのか理解出来ない。しかし、交信相手には伝わった様子で、闇に変化が訪れた。
頭上の闇が払われ、空が見えるようになったのだ。
「ちょっ……何よ、あれ!?」
「おいおい……おいおいおいおい、やってくれるな、イタチ」
闇の向こうからヘルと信長の声が届く。彼らの視線は空に向けられていた。紺色の空に巨大な裂け目が走り、その内側から幾つもの虹色の球体が現れたのだ。
直径数十メートルの物から数百メートルに至る物まで球体は大小様々だ。空亡が小さく見える広大な光景。あの球体群は以前にも見た事がある。
時空の神ヨグ=ソトースだ。
「安宿部明日音の真似事か」
「応ともよ。あ奴が『膨れ女』の協力を得て成し得た大邪神召喚。その技術は我にも可能なのじゃと確認したかった」
三護の嬉しそうな声が闇を隔てて聞こえる。
かつて安宿部が起こした事件――ゴブリン事変。あの時、安宿部はヨグ=ソトースを召喚した。時空を司る神の力で過去に戻る為に。その召喚魔術を三護が再現したのだ。
「さすがは『古賢者』と呼ばれるだけはあるな。とはいえ、そう容易くはなかった筈だ。どうやって可能にした?」
「うむ。当初、我は『安宿部は環状列石と「膨れ女」との協力で召喚を成した』と思っておった。しかし、調べていく内にそれだけでは足りないと分かった。この二つの要素だけでは召喚は不可能じゃと」
大邪神であるヨグ=ソトースを召喚するのは簡単ではない。そもそも神を喚び出すというのが並大抵の事ではない。神の力を直接攻撃に用いる『最上級魔術』でさえ一瞬しか顕現させられないのだ。それを三護はどうやってそれを解決したのか。
「ゴブリン事変の際、安宿部明日音がヨグ=ソトース召喚に成功したのは『膨れ女』の指導があったからだけではない。『膨れ女』がヨグ=ソトースと血が近しいニャルラトホテプだからではないかと推察した」
ヨグ=ソトースとニャルラトホテプの血は近い。それは僕も、雑談の一つとして三護から聞かされた事がある。
伝承に曰く「何もない場所に『魔王』アザトースが現れた。アザトースはその強大な力で宇宙を創造した後、三つの卵を産んだ。それぞれの卵から新たな神が生まれた。ヨグ=ソトース、シュブ=ニグラス、ニャルラトホテプである」なのだそうだ。この説によればヨグ=ソトース、シュブ=ニグラス、ニャルラトホテプの三柱は兄妹という事になる。
「ならば、シュブ=ニグラスと関係のある藍兎を儀式に組み込めば召喚難易度が下がるのではないかと考えた。シュブ=ニグラスの仲介であればヨグ=ソトースも召喚に応じるのではないかと」
僕の背後に立つシュブ=ニグラスに目を向ける。彼女は天に目を向けていた。兄であり夫でもあるヨグ=ソトースを。何となくだが、その視線は愛おしいものを見ているように思えた。
「そして、駄目押しに……こいつじゃ! ヘル!」
「はいはーい」
三護がヘルに命じ、ヘルがゴブリン共に命じる。ゴブリン共が持ってきたのはミイラだった。
否、人型だが人類のそれではない。ゴブリンだ。ゴブリンのミイラが一体、布に乗せられて運ばれてきた。「それは?」と信長が問うと三護はこう答えた。
「安宿部明日音の亡骸じゃよ」
安宿部の亡骸。ゴブリンの長だった七体の内、則天に融解された者以外の六体。則天に殺された六人の安宿部、その一人の亡骸だ。ヘルの指揮棒は安宿部の骨を加工した物だが、死体の残りも墓から持ってきていたのか。
「さあ、ヨグ=ソトースよ! 供物にこれを捧げる! これを対価に今一度、汝の力を我らに与え給え!」
三護が天を仰ぎ、何らかの呪文を唱える。すると、ミイラが宙に浮かび、天へと昇っていた。途中で光の粒子となり、ヨグ=ソトースに吸い込まれて消失する。
「藍兎よ今だ! 撃て!」
イタチの命令が下ったのはちょうど舞も踊り終わる頃合いだった。
前方の景色が変わる。朱無市国の街並みだ。市国の中でも高級な建物が並ぶ区域――貴族街が映し出されていた。中央には一際立派な石煉瓦の建物がある。市庁だ。他国においては王城に相当する施設、市国の核だ。
市庁には真夜中だというのに灯りが付いていた。市庁の中にいる人間も、外で警備している隊員も普段より数が多い。皆が皆、秩父山地の空に現れたヨグ=ソトースを指差して喚いている。どうやら『カプリチオ・ハウス』討伐の成否が気になって、貴族連中が夜も眠らず集まっている様子だ。好都合だ。
あの場所こそが僕達の攻撃目標だ。
偃月刀を振り下ろし、切っ先で市庁を指す。そして上空のヨグ=ソトースにこう念じた。
「――『彼方なる父よ、威光で照らせ』」
ヨグ=ソトースから球体が一つ外れる。直径一キロメートルはある虹色の球体だ。球体は砲弾となってヨグ=ソトースから射出され、市庁に向かって一直線に飛んでいった。
球体が爆発する。
物理的な破壊力は一切なかった。かつて僕がそうなった時と同様に、球体は生物だけを殺した。植木が枯れ、人間が朽ちた。老若男女、戦闘職も民間人も関係なく無差別に。球体に飲み込まれた全ての命が死んだ。人間は乾燥した肉体の所々から骨が剥き出しになっていた。窓際にいた者は手すりを越えて落下し、地面に激突して砕け散った。
「命中確認! 計画第四段階、成功!」
三護がイタチに市庁への攻撃が成功した事を報告する。イタチは頷き、改めて朱無市国へと体を向けた。
「よし、では仕上げと行くぞ!」
此度の国奪り騒動。その計画は五つの段階に分かれていた。
計画第一段階、朱無市国からの脱出による身の安全の確保。
計画第二段階、今屯灰夜によるスパイ活動による情報収集。
計画第三段階、戦力の確保と罠の設置による時間稼ぎ。
計画第四段階、ヨグ=ソトース召喚による敵本拠地殲滅。
そして計画第五段階――最終段階は何をするつもりなのかというと、
「おい、イタチ。そいつは一体何の真似だ?」
信長が見やる先、イタチは弓を構えていた。
だが、矢は番えていない。矢の代わりに番えているのは二メートル近い棒だ。この戦いが始まる前にイタチが背負っていたあの棒だ。棒の半ばから先は布に包まれている。
「勝利宣言だ。闘争は決着を告げねば終わらないからな」
幾らイタチでも二メートルもの棒を弓で飛ばす事は不可能だ。単純に膂力が足りないし、弦も耐えられない。
しかし、それは単なる棒を射る場合の話だ。イタチが番える棒の矢羽に当たる部分には結晶が埋め込まれていた。青色のそれには大量の魔力が込められており、普段のイタチでは不可能な弓術を可能にしていた。
「吠えろ。飛べ。我が勝鬨を聞け――『蒼龍一矢』!」
棒が射出される。
蒼い光が尾を引いて、棒が空を飛んでいく。あんな重さの矢など普通なら一メートルも飛ばないだろうに、五〇キロメートルをも超えてなお飛距離を伸ばす。そしてついには朱無市国にまで届き、市庁前の広場に突き刺さった。
棒に巻かれていた布がめくれ、長方形に広がる。布には五つの星と弓、偃月刀が描かれていた。旗だ。イタチが持ち出してきたあの棒は武器ではなく、旗だったのだ。旗は強い風もないのにはためいている。
『市民よ、聞け! 我が名は阿漣イタチ! 「カプリチオ覇王国」の王、イタチである! 今この瞬間よりこの国は俺様のものとなった!』
旗から音なき言葉が響く。言葉は市国中に広がり、全ての民に伝えられた。旗に仕掛けられた精神感応の魔術だ。強制力は殆どないが、『朱無市国の主がイタチである』という認識がこの一瞬で市民間に共有された。まさしく勝利宣言だ。
その宣言を覆そうとする者はいない。覆す立場にいる市国貴族はヨグ=ソトースの球体でほぼ全員が死滅したからだ。
東の空に光が差す。夜明けが来たのだ。
――ここに国奪りは完了した。僕達『カプリチオ・ハウス』が完勝したのだ。




