セッション90 怨讐
則天の死体を理伏は呆然とした面持ちで見ていた。
ハスターの姿は既にない。則天の死を見届けた後、煙のように消えてしまった。本当に則天に神罰を下す為だけに現れたようだ。自分の信者が重傷を負っているというのに見向きもしなかった。
しかし、理伏が呆然としているのはその事ではない。彼女の思考はずっとある一点に集中していた。
「……拙者の仇が死んでしまった……」
彼女が考えていたのは自身の復讐の事だ。仇である則天が死んでしまった為、復讐は終わってしまった。しかも自分の手ではなく、神の手により誅された。中途半端に終わってしまった復讐にどうしたら良いか分からなくなってしまったのだろう。否、
「拙者は……何の為に生きれば良いで御座るのだろう……?」
彼女が分からなくなってしまったのは復讐だけではなく人生そのものだった。
彼女の発狂内容は復讐だ。狂気は人生に根を張り、彼女の生と融合していた。復讐対象を失った今、彼女は途方に暮れていた。
「復讐の範囲を帝国全部にまで広げるべきか……いや、それは……帝国の民が拙者に何をしたというのか……しかし、帝国がなければ父も母も……ならば、帝国全土を焦土にしてしまっても……」
ブツブツと呟く理伏の様子はおかしい。明らかに平常心を失っている。
「……イタチ殿に会おう。イタチ殿であれば、拙者に道を示して下さる筈……王たる者に従っていれば安心で御座る……誰かに従っていれば、それで死んだとしても……」
更には何やら危うい事を言い出した。「死んだとしても」とは随分と追い詰められた発言だ。表面上は何事もなく振る舞っていた彼女だが、狂気は既に生だけではなく死をも考える程に至っていたのか。
このままではまずいとは思うが、しかし僕は千里眼で彼女を見ている。肉体がここにある訳ではないのだ。理伏に話し掛ける術はない。
どうしたら良いものかと悩んだその時だった。
「そんな顔をするな、風魔理伏。お前の仇ならばまだここにいるぞ」
理伏に声を掛ける者がいた。
誰だ? 風魔忍軍も盗賊団も既に逃亡した。シロワニもまだ戻ってきていない。この場に残っていたのは理伏と則天の二人だけだ。であれば今、理伏に話し掛けてきたのは誰だ? 逃げた誰かが戻ってきたのか?
自分の名を呼ばれた事で理伏の目に理性が戻る。その目で改めて正面を見た。
そこには首なしの『膨れ女』が立っていた。
「…………は?」
「くっくっくっ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているな」
おかしそうに『膨れ女』が嗤う。頭もないのにどこから喋っているのかと思ったら、右上腕の口から声を発していた。斉唱魔術が使えるのだから声を発せるのは道理だが、よもや会話まで可能とは思わなかった。
「まあ無理もないか。死んだと思った人間が喋ったのだからな。……いや、この時代には不死者がいるのだったか。ならば、死人が喋るのは不思議ではないか」
「……誰で御座るか、貴様」
理伏が警戒心を剥き出しにして構える。刀は失われてしまったので徒手空拳だが、どうしようもない。その徒手とて指がぐちゃぐちゃであり、まるで心許ない。
「くくく……この姿だと分からんか。当然だな。今は『膨れ女』の姿だからな。では、名乗ってやろう。
――安宿部明日音。私は安宿部だ」
「安宿部!? 貴様が!?」
理伏が愕然とした面持ちになる。かくいう僕も同じ気分だ。
安宿部明日音。則天に唆されて、ゴブリン事変を起こした張本人。ゴブリンの群れを従えて秩父盆地の村々を襲撃し、風魔の忍を幾人も殺害した男。理伏の両親を嬲り殺しにした下手人。僕と同じ一〇〇〇年前の人間だ。
「貴様は確かに則天に殺された筈……! 化けて出たか!」
理伏の言う通り、安宿部は死んだ筈だ。ゴブリンの長共に喰われた彼は七つの身体を得た。その全員が則天に切り刻まれ、首を刎ね飛ばされた。……いや、違う。
「化けて出たというと少し違う。何しろこの私は死んでいないのだからな」
そうだ。則天に斬られた安宿部は六体までだ。残りの一体は溶かされて則天に取り込まれた。あいつが死んだ所を明確に見た者はいなかった。とはいえ、まさか溶かされてもなお生きていられたとは思わなんだ。
「則天は下僕とするつもりで私を排せず、自らの血肉を分け与えようと胎に収めていたが……くっくっくっ、まさか死後に胎の子に肉体を乗っ取られるとは思うまい」
右上腕の口でニヤニヤとする安宿部。理伏に言っているようでその実、理伏のリアクションなど見ていない。相変わらず自分語りに酔いしれるのが好きな奴だ。
「何が何だかまだ理解が追い付かないで御座るが……」
理伏の目には炎が灯っていた。先程までの茫然自失は消えていた。
「そうか、そうか。次は貴様か。貴様が拙者の仇を引き継いでくれるで御座るか!」
理伏が歯を剥き出しにして壮絶な笑みを浮かべる。歓喜と憎悪、渇望と怨恨の入り混じった哄笑――魔女の窯の底の如き澱んだ表情だった。
「素晴らしい! 拙者の復讐はまだ終わらないので御座るな!」
歪んでいる。理伏の狂笑を見てそう感じた。
復讐に歓喜を見出している時点で目的と手段が入れ替わっている。仇を取る為に生きるのではなく、生きる為に仇を取ろうとしている。今の彼女は本当に復讐こそが生き甲斐になってしまっている。
「くく。意気込んでいる所を悪いが、私は撤退させて貰う。この山に居続けると良くない事に巻き込まれると本能が叫んでいるのでな。それに、首を落とされたまま戦うのも厳しい」
「逃がすものか。……と言いたい所だが、こちらも武器を失っているで御座る」
「ふむ。お互いここはまた後日仕切り直しとしようか」
安宿部が頷き、理伏も頷きこそしないが目は同意していた。ともかくここで更なる命のやり取りになる事は避けられそうだ。
安宿部が近くに落ちていた則天の首を拾う。
「――では、さらばだ」
言葉を残して安宿部の姿がフッと消えた。
今のは空間転移か。かつて則天がこの山で使ってみせた「時空」の概念魔術。則天の肉体を乗っ取った安宿部も使えるのか。恐らくは遠くの安全圏にまで移動したのだろう。空間転移を使えない今の僕達では追う事は出来ない。
元より追う必要もないのだが。それを理伏も知っている筈なのだが、安宿部を逃がした彼女は悔しそうな表情をしていた。
「あれ? 則天はどこ?」
とそこへ、今更ながらシロワニが戻ってきた。先程までの緊迫した空気など知る由もない能天気な様子に理伏も毒気の抜かれた顔をする。
「……もう帰ったで御座るよ」
「えー? そうなの? 私、まだまだ物足りないのに」
シロワニが頬を膨らます。確かに殺人狂の彼女にとっては一人も殺せていない現状は不満だろうな。
「しょうがないなあ。どうせまだ盗賊団の残りがその辺の村で火事場泥棒しているでしょ。そいつらを殺して遊ぼうっと」
だが、すぐに気を取り直すと山を下っていった。疾い。駿馬が如くシロワニは駆け、後ろ姿があっという間に森の奥へと消える。
その後、彼女に見つかった盗賊団がどうなったかについては語るまでもない。




