セッション0 降臨
通勤途中の街中で、怪獣に出くわした。
僕――古堅藍兎は今年で二十九歳になる男だ。
転職を繰り返す事数回。十年近く彷徨った末にようやく今の会社に就き、安定を得た。
順風満帆とは程遠い人生だった。低迷と挫折ばかりの生き方だった。劇的な事など一度も起きた事がない道程だった。正直に言うと、生まれた時からやり直したかった。
未来に何ら関心など抱いていなかった。
だが、それでも死ぬつもりなどなかった。生きていたくもなかったが、死ぬ事を考えている訳でもなかった。今後とも平々凡々な人生を送っていくのだろうと思っていた。
それが、
どうしてこうなった。
西暦二〇XX年、まだ寒い春の日。僕は通勤の途中だった。
眼前に聳え立つは巨大な化け物だ。全長一〇〇メートル……いや、二〇〇メートルはあるだろうか。蛸のような頭部、口元で蠢く触腕。首から下は人型だが、ぬらぬらした鱗に覆われている。背中には蝙蝠の如き一対の翼が生え、まるで伝承に登場する悪魔のようだ。
そんな怪獣が僕の目の前にいた。
それもこんな人が大勢いる街中で。
どうしてこうなった。
「――■■■」
怪獣が僕を見た。
いや、僕の事など認識していないだろう。自身の足元で喚く群衆の一部として見ているだけだ。
当たり前だ。人間が蟻一匹一匹を個別に認識したりするものか。それと同じだ。この怪獣は人間に対してそれが許される程の巨体なのだ。
「■■■■■――ッ!」
怪獣が咆哮する。桁外れの音量に大気が震える。
いや、震えているのは大気ではない。不可視の渦巻く何かだ。何かは確かな物理的破壊力を持って街を襲った。巨大な竜巻が幾本も発生したかのようだ。家屋が植え込みの木々が、ビルが道路が、地表にある何もかもが不可視の力に捻じ曲げられ、崩壊していく。
力は住人達も当然喰い散らかし、僕もまた呑み込まれた。
「わぁ、ああああああああああ――っ!」
高々と空中に巻き上げられる僕。地上は遥か下に。この高さから落下したなら痛みを感じる間もなく死ぬだろうと直感した。
「――――」
落ちる。落ちる。
アスファルトが急激に迫ってくる。
走馬灯が巡る。幼年期から少年期、青年期までの記憶が写真となって脳内を駆け巡る。幼年期を思い出した事で、命の危機を感じた時に母親に会いたくなる現象を理解した。
アスファルトは最早目と鼻の先に。
激突の刹那、僕は力なく笑った。
ああ、畜生。
死にたくねーなあ……。