1.狂った研究者
憧れの人物と会うのは心踊ることだ。ましてや、その人と職場を共にし、肩を並べて働くかもしれないとなれば、その喜びはこの世に生を受けた時のそれを上回るものであった。
青年マイケルは真新しいスーツに身を固め、右手に住所のメモ書きを握りしめて、地下行きのエレベーターの中に立っていた。目的地はこの雑居ビルの地下4階、蝶野博士の研究所である。
「やけに時間がかかるな……」
小綺麗な内装にそぐわず作動部が古くなっているのか、動き出したエレベーターはガチャガチャと耳障りな音を吐き出し続けている。しかしもっと重大な問題は、下降が始まってからもう10分経つということである。Gなど感じるはずもなく、もはや彼は自分が静止しているのか等速運動しているのかも分からなくなっていた。
この大事な日にこんな所で立ち往生しているわけにもいかない、あと1分で辿り着かなければ非常用のボタンを押してコールセンターに連絡しよう、と思った矢先に音が鳴り止み扉が開く。マイケルは早足で外へ出るなり振り返り、自分を閉じ込めていた無能な箱を睨みつけた。
『ようこそ、マイケル・アダムズ君。右手一番手前の部屋に入りなさい。』
扉が閉じたタイミングで、廊下のどこかに設置されたスピーカーから若い女性の声が発された。落ち着いた、しかしどこか威厳のある声に従いその部屋に入ると、ソファにはルーズな服装をした細身の女性が座っていた。
「チョウノ博士、お会いできて嬉しいです。」
マイケルは、ほぼ完璧な日本語で挨拶し、長い黒髪を後ろで束ねた女性と握手を交わした。この人物こそが、彼の憧れの研究者であり、齢30にして人工幹細胞からヒトに移植可能な培養臓器を量産することに成功した天才、蝶野一羽その人であった。
「ああ、英語でいいよ。その呼び方だと専門分野を間違えられてしまう。」
「ではお言葉に甘えて。」
マイケルは蝶野のジョークにはにかみながら、机を挟んだ対面の椅子に腰かけた。
「すみません、エレベーターの故障で少し遅れてしまいました。」
「気にしなくていいよ、あれはああいうものなんだ。この部屋から来客をチェックして、招かれざる者なら地上へ送り返す機能もついている。」
そう言って蝶野はふふふと笑ってみせる。気難しいと噂に聞いていた博士が意外にもジョーク好きの気さくな人間で、マイケルはすっかり安心していた。
彼の表情を見てうむ、と頷いたかと思うと、蝶野はおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、早速中を案内しようか。」
「ちょちょ、ちょっと待ってください。」
部屋から出ようとする蝶野をマイケルが遮った。
「今日は面接のつもりで来たんですが。」
「採用だよ。履歴書は見たが、君なら大丈夫だ。なんというか、顔を見た瞬間これだ!……と思ってね。」
「はあ……」
蝶野はマイケルの顔を見てにっこりと笑った。
何だか大事なことをはぐらかされているようで素直に喜ぶことが出来ず、マイケルは蝶野の後に続いて渋々と廊下へ出た。
部屋を出て廊下の奥へ進む。扉は5つあり、先ほどの5倍ほどの広さの部屋もあるようだった。
「今は脳波の研究をしていてね。こっちの部屋にはそのための設備を置いている。」
「え、培養臓器はどうしたんですか!?」
マイケルが驚くのも無理はなかった。彼の専門は細胞生物学とゲノミクス、どちらも蝶野の研究に役立てようと身につけたもので、脳波とは縁もゆかりもない。マッチョが好みと言ったガールフレンドのために身体を鍛えアメフトを始めたら、いつのまにかどこぞのバンドマンに寝取られていたかのような気分である。
「その研究は中断している。差し迫った問題があるからね。」
「それは一体なんなんですか。あなたの素晴らしい研究はまだ何人もの命を救う可能性がある。それを……」
「異世界人の侵略だ。」
マイケルは耳を疑った。その言葉が科学者の口から出たものだと信じられなかったのだ。軽いパニック状態の頭の中を何とか整理すると、当然1つの可能性にたどり着く。
「あ、ああ、ジョークでしたか。ははは」
「いいや、大真面目だ。」
望みを絶たれ、マイケルは既に泣きそうになっていた。そこへ蝶野が追い打ちをかける。
「私の頭蓋にはアルミが仕込んである。奴らは奇怪な電磁波で人間を操る。その対策だ。君にも推奨するよ。奴らに操られた人間は脳波と脳血流との間に特徴的なズレがある。それを見分けるために健常人のデータを集めているんだ。奴らの侵略に気がついているのは私だけだ。ここもすぐ狙われる。君には私のボディーガードをお願いしたい。」
蝶野の目は真剣そのものであった。
彼女は狂ってしまったのだとマイケルは判断した。かの素晴らしい研究を成し遂げた彼女の下には、財産目当ての連中が多数群がったのだろう。その中の怪しい宗教団体の魔の手に引っかかってしまい、狂った教義と引き換えに搾取を受けてしまったのだ、という風に。
彼女を救いたいのは山々だが、何の準備もなく説得を試みてもミイラ取りがミイラになるのは目に見えている。履歴書から勧誘しやすい人柄と判断され、ここに誘い込まれた可能性すらある。マイケルが今為すべきことは、博士のオフィスから脱出することであった。
「……博士、トイレはどこに?」
「ああ、気が利かなくて悪かった。最初に紹介するべきだったかな。エレベーターから出て左手すぐの所にあるよ。」
「ありがとうございます。」
そう言ってマイケルは早足でその場を離れた。
ここに来る際エレベーターの方向にトイレがあることは事前に確認していた。エレベーターまでたどり着くとすぐに蝶野の死角に入り、ボタンを押す。上の階で誰かがエレベーターを使っていたら降りてくるのにまた10分かかるかも、などと考えていたが、すぐに扉が開いたため安堵のため息をついた。
しかし、その中から出てきた人物を見て、マイケルは再び肝を冷やす。現れたのは180cmを超える大女。飾り気のないオフィススタイルで、切れ長の目に無表情。大女は固まっているマイケルをちらりと見下ろして、興味がないと言わんばかりに素通りし右手の廊下へ向かった。
マイケルは、彼女が自分を包囲しにきた狂信者でなかったことに一時は胸を撫で下ろしたが、すぐ違和感に気がついた。今はまだ博士と自分の面会時間。予定外の来訪者に対してエレベーターのセキュリティは働かなかったのか?博士の関係者なら……そう考えながら女の向かった方を確認すると、なんと女はショルダーバッグから拳銃を取り出し、蝶野の居る部屋のドアに手をかけたではないか。
マイケルは駆け出した。
「やあ、天使を騙る侵略者よ。」
「名乗った覚えはないんだけどね。まあいい。撃たれたくなければ抵抗しないで。」
蝶野と大女は開いたドアを挟んで対面していた。拳銃を向けられているにもかかわらず蝶野は落ち着きすまして、薄く笑ってすらいる。
「博士!」
そこへマイケルが駆けつけた。大女は即座に振り返り声の方向へ銃を向けるが、既に懐へ潜り込んだマイケルはバレルを左手で掴み、右肘で胸を突き上げながら銃を外側へ捻る。大女は小さく呻き声をあげつつ、為すすべなく床へとなぎ倒された。
「博士、大丈夫ですか!?」
「無傷だ。しかし手際がいいな。さすが祖国で陸軍をやっていただけはある。」
「軽口言ってる場合じゃないですって。」
女をうつ伏せに押さえつけ、腕を後ろに捻り上げて拘束したはいいものの、その正体も目的も分からない。仲間が攻め込んで来る可能性も十分にあり得た。
考えを巡らせているうち、暴れていた大女の動きが止まった。やっと脱出を諦めたかと思った直後、女が口を開いた。
「……許可を要請する。」
「は?」
許可?それが何に対するものかは不明だが、自分へ向けた言葉ではないことを直感的に理解した。
「了解。ーー因果干渉・深度Ⅱ」
そして、自分は逃げきれずに巻き込まれたのだとも理解した。蝶野が呼び寄せる並々ならぬトラブルの盾に、マイケルは選ばれてしまったのである。