きっと時間が癒してくれるだろう
「はぁ…」
真っ白なキャンバスを前にしても、出てくるのはため息ばかりだった。締め切りはもう三日後に迫っているというのに、筆は一向に進まない。僕は諦めて机を離れ、ベッドに身を投げ出した。
申し訳ないけれど、もうどんなに頑張ってもやる気が湧いてこない。コンテスト前はあれほど張り切っていたのに、今僕の頭に浮かぶのは憂鬱なイメージばかりだった。
原因は分かっている。ちょうど三日前に、彼女と別れたのだ。どうやら僕が絵を描くことに夢中になりすぎていたのがいけなかったらしい。確かに僕も、最近はコンテストに集中して全然連絡が取れていなかったけれど…。それ以来、胸にぽっかりと穴が空いたみたいで、大好きな絵どころか食事すらまともに手がつかなくなってしまった。
「…はぁ」
こんな状態でまともな作品が作れるわけもなく、僕は三日間落ちるところまでひたすら落ちていった。ダラダラとベッドの上で微睡みながら、なんとなく白い天井のシミを眺め続ける。こんな時は、無理矢理やる気を出してもしょうがない。心の傷は時に身を任せ、いずれ時間が解決してくれるのを待つしかないだろう…。
「ちょっと待ってください」
「うわあっ!?」
突然、頭の向こうから声をかけられ、僕は死ぬほど飛び上がった。いつの間にか、僕の部屋に見知らぬ少女が立っていた。
「だ、だだ誰君!?どうやって僕の部屋に…!?」
「何もかも私に頼るのは、いい加減止めにしてくれませんか?」
「は!?」
少女は凛とした姿勢のまま僕を見下ろすと、これ見よがしにため息をついた。あまりの出来事に、僕はしばらく金魚みたいに口をぱくぱくさせた。ここは僕だけの一人部屋だ。作業中はいつも鍵をかけて、家族ですら入れないようにしているのに…この子は一体何者なんだ?
「私は『時間』の神様、時乃時子です」
「時間の神…!?」
「あなた、失恋したんでしょう?それで、心を痛めた」
「な…!なんでそれを?」
「それでまたあなたは、心の傷を『時間』が解決してくれるのを待つことにしたんでしょう」
「えぇ!?」
やれやれ、とでも言いたげに少女は肩をすくめた。
「そりゃあ、時間が経たないと治らない傷ももちろんありますよ?でもね、私はあなたのお医者さんじゃありません。何もせずただダラダラ時間が過ぎるのを待って、それで物事が何もかも解決できると思ったら、大間違いです!」
…どうやら僕は、『時間』に怒られているようだ。試しに頬をつねってみたけれど、夢ではなさそうだった。
「…大体あなたはいつだってそう。嫌なことがあった時も、怠けてやる気が出なかった時も」
「う…!」
「『時間が経てば嫌なことは洗い流してくれるだろう』って。振り回されるこっちの身にもなってください!」
「ご…ごめんなさい…」
よく見れば整った顔立ちの可愛らしい少女だ。美しいその顔を歪め頭ごなしに叱責され、僕は何故か胸をドキドキと高鳴らせた。
「ハァ…もういいです。はいこれ、請求書ですから」
「なにこれ…?」
「手数料です。今まであなたの心の傷とかやる気を、『時間』を使って治してきた分です」
「お金取るの!?」
「時は金なり、ですよ」
時間の神様が差し出した紙を、僕は訝しげに覗き込んだ。『失恋』三百万円。『モチベーション』五十万円。『睡眠不足』三千万円…。
「高っ!!」
「安い方でしょ。時間は無限じゃないんですよ」
「こんなの払えないよ!」
「そうですね…。もしお金が足りないんだったら…あなたの残り時間、つまり『寿命』から天引きしておきましょうか」
「えええええ!!?」
突然物騒なことを言い出す時間の神様に、僕はもう一度飛び上がった。神様はどこからともなく金属バットを取り出すと、僕目掛けて大きく振りかぶった。
「三年…ってところかしら」
「何する気!?」
「本当は嫌なんですよ?今日だって私、時間外労働なんだから…。あなたもこれに懲りたら、もう『時間』を無駄に過ごさないことね」
「ぎゃ…ぎゃああああああ!!」
「…ああああああああああっ!?…!?」
気がつくと、僕は白いキャンバスの上で涎を垂らしていた。…どうやら描いてる間にいつの間にか、眠ってしまったらしい。時計の針はもう既に、二十四時を過ぎていた。僕はハッとなった。コンテストの締め切りまで、あと六日しかない。
どうしよう、まだアイディアも何も浮かんでこない。そうだ。僕の彼女は絵は全然詳しくないけれど、逆に何かヒントを得るかもしれない。あと六日。…こうなったらもう、できることは何でもやろう。
どっちにしろこのまま黙って指を咥えていたって、『時間』は解決してくれない。やけにヒリヒリと痛む後頭部をさすりながら、僕は急いで彼女の電話番号を押した。




