2.
当代の巫女は、大層美しい声をしていました。
乾いた土に降る雨のように誰の胸にも染み込んでいく。そんな歌声の持ち主だったのです。
その素晴らしさは彼女が、これまでの巫女たちよりもずっとずっと幼くして儀式に臨み、そして選ばれたという経緯がもよく知れる事でしょう。
のみならず彼女の編む旋律たちも、また格別でした。
一度聞けばすぐにも口ずさめる簡素な旋律でありながら、長く耳と心に残って鳴り止まない。優しい光めいた響きをしていたのです。
巫女が小さな唇を開けば詩文と声とは絡み合って虹を織り、一際に輝きを増しました。
人のみならず山も川も草も木も、全てが聞き惚れるほどでした。
彼女はまた、容姿にも秀でていました。
長く柔らかな髪は絹糸のよう。静けさを湛えて穏やかな瞳は黒曜石のよう。褐色の肌は滑らかに芳しい果実のよう。
すらりと伸びやかな手足は年頃の娘の色香をにじませて、ひどく敏捷そうでした。
けれどその印象を裏切って、彼女は自由な立ち振る舞いができませんでした。
若鹿のように駆ける事は、決してできませんでした。
昔、島の男と恋をした巫女がおりました。
彼女は役目を投げ捨てて、二人、陸へ逃げようとしたのです。
事が明らかになった時、島の人々は嘆きました。こんなに愛してきたのにと、裏切りへの怒りに震えました。そして海神様も、お考えを同じくするに違いないと信じました。
その巫女は幾重にも体を縛されて、生きたまま沖に投じられました。自らの役目を思い出し、海神様の御許へ詫びに行けるようにです。
その恋人は幾つにも身を切り刻まれて、固く島の土の下に埋められました。魚になって巫女と巡り合わぬようにです。
同じ悲しみを繰り返さぬ為に、以来巫女の役に就くものは、片足の腱を断たれる決まりとなりました。
身の回り程度の事はできるけれど、決して走ったり逃げたりできない体とする事になりました。
そうして人々は気がつきます。
洞窟の外の世界、外の幸福な暮らしを夢見て歌う巫女の声が、一層に素晴らしくなったのに。
島民たちは思いました。
外の穢れを知らず、ただ憧憬だけをする娘。
暗い海の底深く、孤独に島を支えてくださっている海神様。
その境遇は畏れ多くも似通うようで、だからこそ巫女は海神様の心根をよく理解して、このような次第になったのだろう、と。
美しい歌は島の者たちをよく慰めたので、同じく海神様もお喜びに違いないと、彼らは信じる事ができました。
ですから当代の巫女も、洞より出る事は叶いませんでした。
日の昇り具合、傾き具合を見て歌い、新しい歌を編む他に、彼女にできる事はありませんでした。
いつもぼんやりと地べたに座り、外から差す光をただ眺めるばかりでした。
けれど、ある日。
そんな変わり映えのしない暮らしに、不意に舞い込んだものがありました。
それは一人の青年でした。
如何なる潮の導きでしょうか。
洞の奥、塩辛い地底の湖の岸辺に、外の人間が流れ着いたのです。
巫女は初め、彼が死んでいるのだと思いました。
けれど彼が弱く浅く息をしていたので、儚くか細く胸を上下させていたので、そうではないのだと気がつきました。
この神聖な場所に他所者が立ち入るなどあってはならない事でした。
でも彼女に、彼を見捨てる事はできませんでした。
巫女は人との触れ合い方をよく知りません。助け方なら尚更です。
それでも彼女は凍りそうに冷え切った青年の体に、自分が良いと信じる限りの献身を捧げました。
そうして、彼は一命を取り留めたのです。