1.
その島は昔、ぼうと霞む海霧の最中にありました。
為に陸からは殆ど影しか窺えません。風が強く晴れ渡った午後、稀に姿を垣間見せるばかりでした。
島は、名を持ちませんでした。
そこに暮らす人はあれども陸へ渡る者は少なく、陸から渡る者は更に少なく、ただ「島」と呼ばわればどこか通じる。そんな茫洋とした土地でありました。
それはひどく不思議な島でありました。
大波が寄せれば一番高い山の天辺まで洗われそうに見えるのに、島の土が海の水を被る事は決してないのです。潮が満ちれば満ちただけ、潮が引けば引いただけ、島は自ずと浮き沈みをして変わらぬ姿を保つのでした。
ですから島の人々は信じていました。
この島は海原に住まう神様が支えてくださっているのだと。
暗く静かな海の深くで、神様が我々をお守りくださっているのだと。
そうして言い伝えました。
この島は海神様に愛されているのだ──と。
だから島の人々は歌いました。
感謝の心が海神様の耳に届くように。その慰めとなるように。
畏敬の念を詩に変えて数知れぬ音曲を作り、精一杯に歌い続けました。
そうして、いつの頃からでしょうか。
自分だけの歌を編む事が、一人前の大人として認められる為の儀式とされるようになりました。
その折、一番美しく一番透き通った歌を歌った娘が、海神様の巫女として、島の真ん中の洞窟に住まうようになったのです。
その洞窟も、また不思議な場所でありました。
島の中央に聳える山の根元にありながら、塩辛い海の水で満ちた地底湖を懐に抱いているのです。
だからこそ海神様の御座所に最も近い場所として、そこが巫女の住処に定められたのでありました。
朝に一度、昼に二度、夕暮れに一度。
巫女は歌を歌います。
海神様への祈りを込めて。島の人々への愛を込めて。
その声と命が枯れ果てて、役目を降りるその日まで。
島民たちもそんな彼女を深く愛し、日々欠かさず洞窟へ食べ物を、衣類を、その他様々を奉納するのでした。