5
グラン・ビアスから条件を出されてから今日で七日目。
リストニアは湿った空気に包まれ、とても夏の気候とは思えない日が続いている。もうすぐ雨が降り出すだろう。夏を彩ることなど、もちろん出来ていない。
レンカの手にある新しいヒマワリも、日を追うごとに萎れていき、季彩石の色も薄くなっていく一方だった。今日はもしかしたら輝きすらしないかもしれない。
今日失敗すれば、もう毒薬を手に入れることは出来ない。
なかば足を引きずるようにして、なんとか塔へたどり着くと、エマは今日も無表情でレンカを待っていた。
「おはようございます」
いつものように軽く頭を下げると思ったのに、今日のエマは違った。迷うそぶりすら見せずに、レンカをまっすぐ見据えてくる。
「ハイルが死んでしまったから、アスクレピアスを使わないの?」
「関係ないでしょ」
考えるより先に拒絶が口をついた。背が高いエマを下から睨んでも、彼女は怯まない。レンカの握りしめている花籠に目をやって、首を振った。
「前を向かないと、いつまで経っても夏は彩れないよ。レンカならきっと――」
胸の中に張っていた線が一本、焼き切れたような痛みがはしった。
「やめてよ」
そんなの望んでない。どうして誰もかれも知ったふりをして、口を出してくるんだろう。ああしたら、こうすれば。上塗りするだけの優しさも道しるべもいらないのに。
レンカはヒマワリの花籠を取り落とした。大きな音を立てて、落ちた籠の中で花弁が散る。あっけなくバラバラになってしまう花弁が、あまりにはかなくて悲しかった。
「誰も、なんにも知らないくせに。後を追うとか前を向くとか、勝手なことばっかり言わないで。わたしだってどうしたらいいか分からないのに!」
ほとばしるように叫んで、レンカは駆け出した。背後でエマが呼びかけてきたけど、振り返りもしないで走った。
石畳に黒い染みが出来はじめて、まもなく大粒の雨が降り出してきた。
学院の門を飛び出し、鶫と南瓜通りを目指すレンカの視界を遮るように、雨は量を増して、暗い雲ばかりが空を覆っていく。
息をするたびに雨が邪魔をしてきて、まるでおぼれているみたいだ。
もうなにもかもがいやだった。
暑くない夏も、濁った色の季彩石も、行方を失った恋も、なにひとつ出来ない自分も――あの人がいない毎日も。
すっかり覚えてしまった路地を曲がれば、七日前と同じ扉が目に飛び込んでくる。音を立てずに扉を開ける。はじめからノックをする気はなかった。
部屋の中は静まり返っており、誰もいないことを告げていた。
レンカは、作業台らしい場所や棚の中に毒薬がないか手当たり次第に探し始めた。渡したアスクレピアスは、七日ももたない。渡す渡さないは別としても、枯れる前に彼は毒薬を作ったはずだ。必ずどこかにある。
目当ての物はなかなか見つからない。焦燥が背を這い上がってくる気配を必死に振り切るために顔を上げた、そこに、レンカが持ってきた花籠があった。
まるで導かれるようにたどり着く。花籠の中には、アスクレピアスの代わりに橙色の液体が入った瓶があった。
見つけた。これでやっと、終わらせることが出来る。
レンカが瓶を手に取った瞬間に、背後からあくまで穏やかな声がかかった。
「裏口から入る時は、三回ノックしなきゃいけないんだけど?」
きっと最初から気づいていたのだろう。裏口に佇むグラン・ビアスは慌てる様子すら見せなかった。
「これが毒薬でしょう」
手のひらに収まってしまうほど小ぶりの瓶を、見せつけるように前に出す。彼は否定しなかった。
「契約違反をするような人には渡せないよ。返してくれる?」
「いや。ぜったいに返さない」
瓶を腕に抱えてかぶりを振った。たとえ罵られても否定されても、もう構わなかった。やっと安心して息が出来る。そう思った。
「死んでどうするの? まさか彼に慰めてもらえるとでも?」
「思ってない!」
抱いていた淡い希望や夢は、とうの昔に砕かれている。今さら望めるものなどかけらも残ってはいないのだ。
ただこの息ぐるしさを終わらせたくて――違う、そうじゃない。本当は、わたしは。
心の底の底に埋めて隠してきた懇願が、涙と一緒にこぼれ落ちてきた。
「ずっと嫌われてたもの。大嫌いだって何度も何度も何度も聞いた。それでもどうしても嫌いになれなかった。笑ってほしくて、いつか優しくしてほしくて。だからせめてあの人に夏をあげたかったのに!」
夏を迎える前にあの人はいなくなってしまった。死んでしまった。もう二度と、会うことすら出来ない。息ぐるしさは絶えることなく襲ってくるのに、レンカは息の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
『……早く夏になればいいのに』
あの時、初めて今のハイルに少しだけ触れられた気がした。骨ばった指先とかみ合った瞬間の、自分の指が痺れるような感覚は、今でもはっきり思い出せる。
もしあの人に夏をあげられたら。なにかが変わると信じたかった。それさえも奪われたら、レンカはいったいどうやって歩いていけばいいのだ。
「花彩師なんて目指さなければよかった…………ばかみたい」
同じ場所を目指さなければ、なにも知らないままでやり直せたかもしれない。
アスクレピアスの色を教えてくれた優しい義兄を、もっときれいな形で好きになれていたら、こんな息ぐるしさも知らないでいられたはずだ。
「選んだものを、そんな風に手放そうとしちゃいけない」
なにが分かるの、と飛び出しそうになった言葉を、とっさに飲み込んで口をつぐんだ。
レンカよりもよっぽど痛みをこらえた顔をしたグラン・ビアスがそこにはいた。
「本当は言いたかったことがたくさんあったんだね。だけど、もう聞いてもらえないから悔しいし悲しいし、寂しくて逃げたくなるんだよ。……うん、そういうのは少し分かる」
後半はなにかを懐かしむような響きがにじんでいた。遠くに誰かを探そうとする仕草は、妙に馴染んでいて、彼もまた誰かを失ったのだろうとぼんやり思った。
グラン・ビアスはゆっくりと距離を詰めて、レンカの頬に伝う涙を拭った。少しぎこちない指はとても温かかった。
「もし彼がいたなら、君はどうしてほしかった? どうしたかった?」
彼の言葉は矢にはならず、レンカの体中にしみこんでいくようだった。問われた意味を反芻して、いっぱい考える。脳裏にハイルの姿を思い浮かべる。
「天才だとかそんなのどうでもいいって言ってほしかった。ただ昔みたいに一緒にいたかった。少しでいいから優しくしてほしかった。わたしはわたしなのに」
レンカは鼻をすすりながら小さく答えた。掠れきった声は頼りなく、まるで幼い子どものようだ。
天才と呼ばれるような人間じゃなかったら、ハイルはきっとずっと優しい兄でいてくれた。そのことが悲しかったし、同時にとても嫌だった。あの人は、義妹のレンカとレンカ・エイロードを天秤にかけて、後者をとったのだ。
「ずるい。散々嫌い嫌いって言ったくせに、わたしには嫌わせてすらくれなかったし、怒らせてもくれなかった」
重たい淀みばかりが体に溜まっていって、息ぐるしいのにぶつけられない。それはのちに「恋」という名前をつけられたけど、レンカを救うことはなかった。だってもうどこにもハイルはいない。
だから逃げてしまおうと思ったのだ。レンカにとって、こわいのは死ぬことじゃなく、独りで道の先を進むことだった。
「そっか、よく頑張ったね」
優しくいたわるように髪を梳く指先は細くてやわらかい。レンカの瞳からぽろぽろと新しい涙が粒となって頬を滑っていった。
この手も瞳も声も、あの人の代わりにはならない。
分かりきったことを改めて教えられた気がした。そのうえで、彼は大丈夫だとレンカに言う。今までないほどの優しさを、暗い青の目に溢れさせて。
「思いっきり文句を言ってあげなよ。たしかに伝えてももう相手の反応は分からないけど、言った方がいい。それが今を生きてる君の糧になる」
「糧?」
「少なくとも後ろを向きっぱなしにはならないってこと。また頑張れるようになる」
いまだかたく握りしめている瓶を指して、こんなものに頼らなくてもね、と付け加えた。
毒薬を手に入れても、レンカにはこの瓶を空に出来ないと分かっていた。死んでしまいたいと思ったのは、どうしようもない弱虫が発揮した強がりであったことを、馬をこわいと思ってしまった瞬間に知ってしまった。
なに一つ手放せないのなら、選ばなければいけない。自分が向くべき場所は、前なのか後ろなのか。
レンカが自分の手で涙を拭ったその時、前触れもなく扉が勢いよく開いた。
入って来たのはずぶ濡れになったエマだったので、レンカはびっくりして目を見開いた。一言たりとも彼女に行き先を告げていなかったのに。
すばやくレンカから距離を取ったグラン・ビアスの存在を丸ごと無視して、エマはまっすぐレンカに向かってきた。思考が追いつかないうちに肩を掴まれる。
「戻ろう、レンカ」
彼女は一言もレンカを責めなかった。怜悧な栗色の目には一点の曇りもなく、泣きはらした顔のレンカを映し出している。
「でも」
「大丈夫、出来るよ。花は私が摘んできた。ほら」
雨除けの布をかけられた花籠に詰まっているのはアスクレピアスだった。ちょうど蕾が開いて、赤の中から橙色の花弁が顔をのぞかせている。
久しぶりにこの花を間近に見た気がした。懐かしい香りにまた涙がにじみそうになる。
本当は分かっていた。レンカはどうしたって、前に進まなければいけない。それなのに首をもたげている不安が、レンカを引き止める。
「どうして大丈夫なんて言い切れるの? わたしのことずっと見てたはずでしょ?」
このひと月のレンカの成果なんてないに等しい。夏はいつまで経っても始まらず、季彩石を色づけることすらまともに出来ていないのだ。
そんなレンカを見続けていても、彼女はいつもなにも言わなかった。手助けも非難もなにも。ただ変わらずに塔の前でレンカを待っていた。
エマは迷いもしないで口を開く。飛んできたのは鋭い矢ではなく、強くて澄んだ光のしるべだった。
「レンカはきっと素晴らしい花彩師になれる。そう思うから」
誰かからそんな風に言葉をかけられたのは、初めてだった。まるで、信じてるとでも言うように。
巣食う不安からうつむきそうだった顔をしっかりと上げる。涙はもう出なかった。
「うん。戻らなきゃ」
レンカの声に答えたのは、エマでもグラン・ビアスでもなく、小さな闖入者だった。
闖入者はにゃあにゃあと甘え声を出し、しっぽを大きく振って丸々とした体ごと転がるようにやって来たかと思うと、飼い主など目にも入れずにエマに駆け寄った。エマの長い足にまとわりつき、全力でじゃれている。いつもの眠そうな顔が嘘のようだ。
「今日は忙しいからまた今度ね、ミッケ」
少し困った風にかけられた一言で、誰が「ミッケ」と名付けたのか唐突に気づいた。グラン・ビアスがレンカとハイルのことを知っていたわけも、とつぜんやって来たエマに対し眉一つ動かさなかったわけも。
おもわず彼に視線を移そうとする前に、きっちり視界を遮って、目の前に花が差し出された。
「これ忘れ物。あとそれもどうぞ。よく効く睡眠薬だからお供えにもぴったりだと思うよ」
先日押しつけて返してしまった硝子のヒマワリと共に、渡された言葉に目を見開く。
開けた視界に映ったグラン・ビアスは少年のように笑っていた。無邪気を装っていると分かっているのに、おもわず見惚れた。
「抜け穴が多いって言ったよね? 一つ賢くなれてよかったね」
悪戯をたくらむ少年に似た顔で、声音だけは優しくレンカを包む。その優しさに負けたくなくて、レンカは精いっぱいの笑顔で強がった。
「うそつき」




